現在開催中の企画展「因幡の中世城館 鹿野戦国クシナ城」は、令和3年1月22日(金)までとなっていますので、まだ御覧になっていない方はお越しください。
ところで、この次に予定していた企画展「東伯耆の中世城館」ですが、都合により令和3年2月5日(金)から展示開始とします。楽しみにしていた方には申し訳ありませんが、もうしばらくお待ちいただければ幸いです。展示の内容については、改めてお知らせします。
なお、「鹿野戦国クシナ城」の展示パネルは、令和3年1月29日(金)から鳥取県東部庁舎1階ロビーに展示しますので、お近くに来られた際はどうぞ御覧ください。
先日にも御案内しました、企画展「因幡の中世城館 ~鹿野戦国クシナ城~」が始まりました!今回は、因幡の中世城館の中で、当センターが発掘調査を行った狗尸那(クシナ)城跡の特集展示です。
今回の発掘調査では、御存じのとおり、新聞報道やテレビニュースなどで報道された大型礎石建物跡(御殿的建物)が見つかりました。さらに、発掘調査に伴い、詳細な測量や縄張り図の修正なども行ったため、狗尸城の詳細が見えてきました。
今回の展示では、狗尸那城の新たな縄張り図と、防御施設や構造がよく分かる写真から、狗尸那城の実態に迫ります。現地に行ったことがない人はもちろん、実際に城跡を御覧になった方でも、高い切岸や大規模な横堀といった狗尸那城の迫力を、改めて感じていただけると思います。
さらに、狗尸那城跡の全景や各曲輪、横堀などをドローンで撮影した動画も上映しています。
展示をぜひ御覧いただき、遠き戦国の世に思いを馳せていただければ幸いです。
企画展「因幡の中世城館 鹿野戦国クシナ城」
会期:令和2年12月18日(金)~令和3年1月22日(金)
開館時間:平日、午前9時~午後5時
12月26日(土)、27日(日)は午前9時~午後5時、
12月19日、1月16日(土)は、午後1時~午後5時、特別開館
令和3年1月28日(木)からは「東伯耆の中世城館」を予定しております。どうぞお楽しみに。
展示風景
ドローンによる動画
企画展「因幡の中世城館 ~鹿野戦国クシナ城~」を令和2年12月18日(金)より開催します。
今回の企画展は、因幡の中世城館の中で当センターが発掘調査を行った狗尸那城(くしな)跡の特集展示です。
狗尸那城跡と言えば、テレビニュースや番組、新聞などで取り上げられた県内初の御殿的建物(大型礎石建物)が有名で、多くの城館ファンの関心を集めています。
しかし、狗尸那城跡の魅力はそれだけにとどまりません。いつ造られた城なのか? 城の各所に造られた防御施設はどのように機能したのか? などの疑問を多くの皆様がお持ちであり、これが狗尸那城跡の歴史ロマンをかき立てているものと思います。
今回の企画展では、狗尸那城がいつ頃機能し、どのように現在の縄張の姿になったのか、また、各防御施設の機能はどのようなものかを現段階で分かっている最新情報を展示します。
例えば、高さ10mを超える切岸、大規模な竪堀と横堀、各所に置かれている「つぶて石」などなど、この他にも多くの防御機能を駆使した狗尸那城は、攻める側からすれば侮れない城です。
これに加えて今回企画展では、狗尸那城跡の御殿的建物跡や曲輪、横堀などのドローン動画も同時展示します。
今年度末には狗尸那城の発掘調査概報を刊行予定ですが、それより先に最新情報を得るにはこの企画展示をご覧ください。
狗尸那城跡平面図:竪堀などの防護施設が随所にあることが分かります。
平面図9線の断面図:緩斜面(左側)に堀などの防御施設が配置されています。
西伯耆の中世城館 会期:令和2年10月3日(土)~12月11日(金)
因幡の中世城館 会期:令和2年12月18日(金)~令和3年1月22日(金)
東伯耆の中世城館 会期:令和3年1月29日(金)~2月26日(金)
上記のとおり変更となりましたので、よろしくお願いします。
チラシ
現在、開催中の企画展「西伯耆の中世城館」は、県東部エリアの皆様が普段見ることがなかなかできない、県西部の中世城館の出土品を展示しておりますが、当方の周知が十分でなく「知らなかった」というご投稿もいただいておりました。
このため、より多くの皆様に御覧いただきたく、この度、「西伯耆の中世城館」の会期を延長させていただくことにしました。期間中は、令和2年11月3日(火・文化の日)、11月7日(土)、21日(土)の午後は特別開館します。
この機会に是非、企画展「西伯耆の中世城館」をご覧下さい。
【延長後の企画展会期】
現在~令和2年11月30日(予定)まで
県西部の中世城館の出土品
[令和2年10月掲載]
県内では戦国時代の発掘調査事例は多くありません。また、全国的にみても16世紀後半の山城の発掘調査をしても出土品はあまり出ません。
今回の企画展で展示している手間要害(てまようがい)からは多くの白磁、青磁、染付等、当時としては高級な焼き物が出土しています。この出土品は、毛利氏の西伯耆支配において、河岡城や尾高城の後詰めの城として手間要害が拠点的な居城であったことを裏付ける貴重な資料でもあります。
この度の企画展には尾高城と手間要害の両方を展示しています。
この企画展示期間も残り1週間、特に東部の方にはめったに見ることができないもので、この機会を逃すと次はいつご覧いただけるかわかりません。是非ご覧ください。
手間要害出土の染付
企画展「西伯耆の中世城館」の展示が始まりました。
今回は、出雲の尼子氏や安芸の毛利氏が勢力を伸張させ、両者の争いの中で重要となっていた西伯耆の主要な城跡のうち、発掘調査が行われた城跡の出土資料を展示しています。
今回取り上げたのは、尾高城(米子市)、石井要害(同)、手間要害(南部町)、江美城(江府町)で、中国製の青磁・白磁や国内産陶磁器、素焼きの小皿や茶臼、瓦などを展示しています。出土した中国製の陶磁器は、そうした舶来の器物を入手できた財力を、また、茶臼や天目茶碗は、争いの中にあっても茶を嗜む余裕があったことを示しており、戦国時代の争いの中における武将たちの生活の一端を示しているようです。
展示は令和2年10月30日(金)までで、平日のみの開館ですが(開館時間:午前9時~午後5時)、11月3日(土)と11月17日(土)は、午後1時~午後5時の間、特別開館しています。
今後は、令和2年11月に「東伯耆の中世城館」、12月に「因幡の中世城館」を予定しているほか、「鳥取まいぶん講座」も11月、12月に城館シリーズを予定しております。どうぞお楽しみに。
展示風景
[令和2年10月3日掲載]
先日、鳥取市鹿野町にある狗尸那城の現地説明会を開催しました。一旦中止していた7月の現地説明会にお申し込みいただいていた方に限って御案内したものですが、多くの方に御参加いただき、城跡に対する関心の高さを改めて実感した次第です。
さて、秋の令和2年10月から12月までの3月、鳥取県埋蔵文化財センターは中世城館特集です。まいぶん講座、企画展示でそれぞれ中世城館を扱います。
令和2年10月の企画展示では、「西伯耆の中世城館」を行います。西伯耆は、国人領主に加え、出雲の尼子氏や安芸の毛利氏が勢力を伸張させた地域です。両者の争いの中で文献の中に出てくる城など、西伯耆の拠点となっていた城跡を紹介します。
今回は、尾高城(米子市)、石井要害(同)、手間要害(南部町)、江美城(江府町)から発掘調査によって出土した陶磁器や土器、石臼などの資料と、縄張り図などを展示する予定です。
企画展示「西伯耆の中世城館」
会期:令和2年10月3日(土)~10月30日(金)
開館時間:平日、午前9時~午後5時
10月3日(土)、17日(土)は、午後1時~午後5時の間特別開館
今後は、11月に「東伯耆の中世城館」、12月に「因幡の中世城館」を予定しております。どうぞお楽しみに。
埋蔵文化財センターで開催中の企画展「埋文センターの『めいひん』」の展示資料の紹介第3弾です。
令和2年8月15日(土)から開催している本企画展も、会期は残すところあと1週間となりました。
最初に御紹介した坂長第6遺跡の金床石は、重さ約145kgでしたが、今回紹介する殿河内上ノ段大ブケ遺跡出土の石柱も、約85kgと負けてはいません。
この石柱は縄文時代後期のもので、写真下のように穴に立ててありました。ここは竪穴建物が埋まった場所で、その上面には石が集められていました。
砲弾型をしたこの石柱の表面は非常に滑らかで、丁寧に磨いたようです。反対側は途中で折れたようになっていますが、その面もかなり滑らかですので、後世に折れたものなどではなく、埋まる直前にはこうした形だったことがわかります。
近くに石が集められていたこと、丁寧に加工されていることなどから、何らかの祭祀に使われたものと考えられています。想像をたくましくすれば、平らになった上面に供物などをおいた祭壇などとも考えられますが、さて、実際はどうだったのでしょうか。
石柱
石柱の出土状況
[令和2年9月掲載]
埋蔵文化財センターで開催中の企画展「埋文センターの『めいひん』」の展示資料の紹介第2弾です。
写真の資料は、鳥取市松原古墳群の調査で出土した、高さ3cmちょっとの磁器製品です。側面に合わせ目があるので、型で作られたと推測できます。
顔が表現されているので、人物であることは分かります。右手をあげており、額の前にかざしているのでしょうか。頭にはヘルメットのようなかぶり物、服は上下がつながっているようです。背後にはリュックサックのような袋を背負い、その上に「クリコ」という文字が読み取れます。
さて、皆さんはこれが何か分かりますか?
実はこれ、「グリコ」のおまけなのです。頭のかぶり物は「飛行帽」、服は上下つなぎの「飛行服」、袋は「背嚢(はいのう)」と考えられ、パイロットを表現したのでしょう。こうした格好から想像されるとおり、昭和10年~15年のものです。お菓子のおまけとして、子どもが手に入れたたものなのでしょうが、山の中で見つかったということは、遊んでいるうちに落としてしまったのかもしれません。
実は、こうした戦前・戦中の資料は、文献が残っていないことも多いのです。そうした時に、大地に残された「モノ」を研究する考古学が力を発揮します。この資料自体は「迷品」ともいうべきものなのですが、出土した場所の来歴や利用状況を考える上では、無視もできない資料なのです。
グリコのおまけ
[令和2年8月掲載]