展示・イベント等

県西部で「因伯の山城50選(暫定版)春」の写真展示を行っています。 New!

 「因伯の山城50選(暫定版)春」写真展を、鳥取県立むきばんだ史跡公園のガイダンス棟「弥生の館むきばんだ」のシアタールーム(正面玄関入って右手側)で始めました。会場には応募のあった山城写真の中から「埋蔵文化財センター賞」の9作品を展示しています。撮影された山城には、米子城跡や江美城跡などがあり、城跡に残る石垣や曲輪(くるわ:兵が駐屯する人工的に削りだした平坦面)からひろがる眺望など、山城のおもしろさ、すばらしさを伝える作品です。
 展示期間は11月末頃までとなっていますので、行楽の秋、むきばんだ史跡公園の散策がてらぜひご覧ください。

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『鳥取県遺跡MAP』公開しています!!

 「鳥取に旧石器時代の遺跡はあるの?」「縄文時代の遺跡の場所は?」「古代の役所跡は?」
 学校での学習や趣味で遺跡を調べている時などにこのような疑問をもたれたことはないでしょうか?
 こんな時に活躍するのが「鳥取県遺跡MAP」です。昨年度までは、当埋蔵文化財センター展示室でしかご覧いただけませんでしたが、この度、満を持してWeb公開いたしました。
 この「鳥取県遺跡MAP」は合併前の旧市町村単位で主な遺跡を掲載しているほか、「縄文時代、ここは海だったのか。」ということも分かるなど各時代の地形変化もご覧いただけます。また、掲載遺跡、掲載資料も随時追加していく予定です。
 是非、この遺跡MAPでお住いの近くを探してみてください。身近に遺跡があることに驚かれると思います。
 なお、「鳥取県遺跡MAP」は当埋蔵文化財センターのトップページのサイドメニュー「目的から探す」の「鳥取県遺跡MAP」からご利用いただけます。
 「鳥取県遺跡MAP」で遺跡探索をお楽しみください!!

○「鳥取県遺跡MAP」の開き方photo1015


「飛田砦(ふだとりで)」の現地踏査

 地域協力の一環として、鳥取市鹿野往来交流館「童里夢」さんと一緒に、鳥取市鹿野町河内(こうち)にある「飛田砦」の現地踏査を行いました。「飛田」は地元で「ふだ」と呼ばれています。河内上条集落の裏山に築かれたこの城は、尾根の先端にあり、三方を土塁と空堀によって囲んだ独特な構造が特徴です。
 土塁は高さ2~3m、幅4mほどあり、同規模の土塁をもつ城館は周辺にありません。この独特な構造から天正8~9年にかけて鳥取城を取り囲んだ織田方の陣城の一つではないかと考えられています。
 この「飛田砦」の正面には織田方と毛利方との戦争のなかで、一時期織田から毛利へと転じた地元の鹿野氏が立て籠もった荒神山城があり、この城を強く意識した場所に築かれたことがわかります。
 10月23日(土)には、「童里夢」さんによるウォークイベントが企画されいてます(詳細はこちらhttps://shikano-dream.jp/)。
鹿野町河内を歩き、織田・毛利戦争の陣城に想いをはせてみてはいかがでしょうか。

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西から見た飛田砦

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曲輪内の様子

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飛田砦付近から見た荒神山城(正面右側の山)


新書版「性差(ジェンダー)の日本史」が発売されました

 昨年秋に国立歴史民俗博物館で開催された企画展「性差の日本史」の内容を分かりやすく解説した、新書版「性差の日本史」が集英社から発売されました(定価840円+税)。この企画展は、当センターでも何度かお知らせしたように、大変話題となった展覧会で、企画展終了後に急遽新書版が刊行される運びとなったものです。本県出土資料が数多く展示されたこともあり、当センターでも今年の夏に「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」を開催し、好評を博しました(7月12日Facebook記事)。
 古代から現代までのジェンダーの歴史が分かりやすくコンパクトにまとめられた本で、本県出土資料についても数多く記載されています。是非ご覧ください。

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企画展「いにしえの田園風景(秋)」の展示品の紹介

 令和3年10月15日まで当センターで開催している企画展「いにしえの田園風景(秋)」で展示している遺物を紹介します。
 今回は、鳥取市鹿野町の乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡から出土した、古墳時代前期(約1700年前)の臼(うす)を取り上げます(写真1)。保存処理が完了してから今回が初のお披露目です。
 臼は穀物を脱穀したり、籾殻(もみがら)をはがしたりするための道具です。石包丁などを使って摘み取られた稲穂を臼の中に入れて杵(きね)でつくことで、茎から籾が外れ、さらに籾殻がはがれて玄米になります。
 乙亥正屋敷廻遺跡から出土した臼はトチノキ製で、出土時は縦に割れて半分以上が失われていましたが(写真2)、高さ49.8cm、復元した径は約90cmもあります。遺跡から出土する臼の大きさには大型と小型のグループがあり、そのうち大型臼は高さ40~60cm、径30~60cm程度とされていますが、乙亥正屋敷廻遺跡の臼はこれを上回る大きさであり、超大型と言えるでしょう。この臼はその大きさもさることながら、意図的に割って廃棄したものとみられることから、集落のマツリなどの特別な場で使われていた可能性が考えられます。

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写真1 乙亥正屋敷廻遺跡から出土した臼(右側が脚部分)

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写真2 臼の上部側から見たところ


企画展「いにしえの田園風景(秋)」

 令和3年9月8日(水)から当センター展示室で、米作りをテーマにした企画展「いにしえの田園風景(秋)」を開催しています。
 今回の「秋」編では、お米の収穫から調理までに関する資料を展示しています。鳥取市鹿野町所在の乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡から出土した古墳時代前期(約1700年前)の臼(うす)は、今回の展示が初お披露目です。
 この展示をご覧いただいて、昔の人々の米作りにかけた苦労を思い浮かべながら、今年の新米を味わってみてはいかがでしょうか。会期は令和3年10月15日(金)までです。
 また、令和3年9月18日(土)午後1時30分から、この企画展に関連した「鳥取まいぶん講座」を当センターで開催する予定です。ただいま受講の申し込みを受け付け中です。

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展示室入口

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 乙亥正屋敷廻遺跡出土の臼

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調理用具あれこれ


「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」の質問回答(その3)

  先月10日に開催した「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」では、時間の都合上、その場での質疑応答は行えませんでしたが、参加者に質問を書いていただき、後日HP上で回答を行うこととしておりました。最後は、鳥取出身の伊福部徳足比売臣(いおきべとこたりひめ)を中心に古代の女官について講演いただいた伊集院先生への質問に対する回答をご紹介します。
なお、大変多くの方から御質問がありましたが、全てにお答えすることは出来ませんので、ご了承ください。
(質問1)
  徳足比売の銘文に「采女(うねめ)」の字句がないのは、銘文を刻んだ目的が彼女の極位を示すこと、一族がそれを顕彰することにあったためとは考えられないでしょうか?文武天皇に仕える以前(父の名、いつ出仕したのか等)が刻まれていないのは、一族としては自明のことであったためと思われるのですが。
(回答)
  銘文に「因幡国法美郡伊福吉部徳足比売臣、藤原大宮に御宇大行天皇の御世、慶雲四年歳次丁未春二月二十五日、従七位下を賜わられ仕奉る」(原文漢文)と書いているのがポイントですね。彼女の極位を示すことが大事だったのは、もちろんです。同時に、古代の様々な史料をみると、その人がどの天皇(古くは大王です)に仕えたかということが重視されています。地方豪族と朝廷が、人を介して直接結びつくことが大事な時代だったからでしょう。徳足の銘文にも、藤原大宮で天下を治めた大行天皇、つまり文武天皇に仕えたことが「仕奉」という言葉で書かれています。古代の感覚からみると、ここが、最も記録したいことだったはずです。銘文は、「末代の君等」に墳墓の破壊を戒めました。この表現は、血縁の範囲にとどまらず、法美郡の将来のリーダーたちへの訓示と読めると思います。中央に出仕した徳足を、朝廷とこの地方をつなぐ役割を果たした女性として法美郡の人々が顕彰した、徳足を誇らしく感じた人々のなかに、父方母方、双方の血縁の人々も入っていたと私は考えています。
(質問2)
  自薦での出仕ルートについてですが、自薦の場合、全て採用されるのでしょうか。誰でも天皇の側で仕えることが可能だったのか、基準があったと考えるのか、どちらでしょうか?
(回答)
  古代では、采女に選ばれなかった地方豪族女性が、自ら望んで宮仕えするルートが開かれていました。彼女たちの多くは、出仕後はまず後宮十二司などに配属されて「女孺(にょじゅ)」と呼ばれる実務担当女官になります。彼女たちのような自薦の場合、すべて採用されるのかという質問ですが、難しい問いですね。彼女たちは、郡司や旧国造など、采女を出せる豪族と同じクラスの地方豪族の一員です。奈良時代の地方出身の女孺たちのなかには、令制前から朝廷の直轄地の管理を担った豪族や、貴重な特産品の産地の豪族の一員がいます。奈良時代後期には、東大寺の荘園があった地域の豪族女性の出仕もあります。このような例から、中央との結びつきが出仕に有利に働いたのではないかと私は推測しています。採用にあたっては何らかの施行細則があったと思いますが、なにしろ史料不足で、いまのところ断定はできません。今後、史料の精査によって明らかになるかもしれませんので、研究状況を見守っていただければありがたいと思います。

青谷横木遺跡出土人形(女性)

青谷横木遺跡出土人形(女性)

青谷横木遺跡出土人形(男性)

青谷横木遺跡出土人形(男性)


「古代まつりin埋蔵文化財センター Mini Edition」で、新たな古代体験として「山城ジオラマを作ろう!」を開催します!

  先日御案内した「古代まつりin埋蔵文化財センター Mini Edition」では、発掘体験とともにいろいろな古代体験を行います。
 今年、新たな体験として、「山城ジオラマを作ろう!」を企画しました。これは、鳥取県が行った「航空レーザー測量」のデータを加工し、約2500分の1の大きさに3Dプリンタで打ち出して作ったものです。山城の曲輪や斜面に砂やコケなどを木工用ボンドで貼り付けると、写真のようなリアルな山城の完成です。

 今回は、当センターが調査を行っている「狗尸那(くしな)城」(鳥取市鹿野町)と、「若桜鬼ヶ城」(若桜町)の2城を御用意しました。土の城と石垣の城、どちらか好きな城を選んでいただけます。
 「古代まつりin埋蔵文化財センター Mini Edition」は、各日とも定員までまだ若干余裕がありますが、お申込みはお早めにどうぞ。

狗尸那城

狗尸那城

若桜鬼ヶ城

若桜鬼ヶ城


「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」の質問回答(その2)

 先月10日に開催した「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」では、時間の都合上、その場での質疑応答は行えませんでしたが、参加者に質問を書いていただき、後日HP上で回答を行うこととしておりました。第2回目は、弥生・古墳時代の副葬品と性差について講演いただいた清家先生への質問に対する回答をご紹介します。
  なお、大変多くの方から御質問がありましたが、全てにお答えすることは出来ませんので、ご了承ください。
(質問1)長瀬高浜1号墳(湯梨浜町)の女性首長についてわかる(推察できる)ことをできるだけ詳しく知りたいです。
(回答)長瀬高浜1号墳は直径24mの円墳です。5世紀中頃から後半の古墳です。同遺跡には周溝を持つ古墳が37基検出されていますが、その中でも最大規模でありかつ初期のそれの一つです。1号墳の中心埋葬は箱形石棺で、そこから熟年女性人骨が検出されました。1号墳の周溝内外には墳丘を持たない小規模な埋葬が20基弱も設けられています(周辺埋葬)。彼女は、そうした周辺埋葬被葬者を率いたリーダーであると同時に、長瀬高浜遺跡を構成する集団全体の長だった可能性があります。
(質問2)古墳時代中期には男性首長が多くなる理由は戦い、武力が中心的なものとなるとのことですが、前期には少ないとお考えですか。ヤマト政権は基本的に軍事政権であったとお考えですか?
(回答)ヤマト政権は前期から軍事的要素がありましたが、前期は軍事より青銅鏡に代表される祭祀儀礼をより重視していたと考えます。中期になり、とくに韓半島における軍事的緊張がヤマト政権の軍事政権化を促したものと考えます。それが、首長層における男性の優位性を促進させました。

長瀬高浜1号墳全景

長瀬高浜1号墳全景

長瀬高浜遺跡1号墳埋葬施設内

長瀬高浜1号墳埋葬施設内


「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」の質問回答(その1)

 先月10日に開催した「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」では、時間の都合上、その場での質疑応答は行えませんでしたが、参加者に質問を書いていただき、後日HP上で回答を行うこととしておりました。初回は、古代の女性全般について講演いただいた義江先生への質問に対する回答をご紹介します。
なお、大変多くの方からご質問がありましたが、全てにお答えすることは出来ませんのでご了承ください。

(質問1)青谷横木遺跡出土木簡の「宅」は、「五百井(いおい)女王家」と記される場合の「家」と同様の経営拠点を含めた家政機関全体と捉えてよいでしょうか?
(回答)その通りです。五百井女王(母は光仁天皇の娘)は高位の女官で、地方に墾田などを所有していて、その寄進文書が残っています。こうした墾田などの経営は、朝廷から任命された役人によって運営されていました。「ヤケ」は漢字では「宅」とも「家」とも書かれます。三位以上の男女貴族の家政機関の役人は「家司」、四位~五位は「宅司」です。ただし、青谷横木遺跡木簡の「宅」は、こうした公的性格をもつ貴族の家政機関ではなく、地域有力者による農業経営のための組織だったと考えられます。いずれにしても、「ヤケ」は家族ではなく個人単位に設けられる組織で、たんなる住居ではなく事務所のようなもの、という点では共通しています。

(質問2)7~8世紀の8代(6名)女帝の子の天皇(女系天皇)がない理由は何でしょう?
(回答)古代は双系社会でした。だとすれば、父母が天皇である人物が即位した場合、それは男系天皇でしょうか?女系天皇でしょうか?六世紀の世襲王権形成以降、血統の尊貴性を高めるために、王族は濃厚な近親婚をくりかえしました。ですから、天皇の多くは、父方・母方のどちらをたどっても天皇の血をひいているのですが、これまでは双系という視点がなかったため、男系の血筋にのみ注目してきたのです。例えば、天智天皇・天武天皇の父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇です。また、元正天皇の父は草壁皇子、母は元明天皇です。皇極(斉明)天皇も元明天皇も、天皇としての権力を確立し、その統治実績にもとづいて自分の息子・娘に王位を伝えました。日本令は、モデルとした中国令の条文にあえて手を加えて、「女帝の子」も親王として即位資格を持つと明記しています。

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「宅」が書かれた青谷横木遺跡出土勧請(かんじょう)板

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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