貴重な「地下の弥生博物館」
青谷上寺地遺跡は今から2400年前から1700年前に存在していた弥生時代の集落の遺跡です。山陰自動車道の建設を機に発見され、その見事な出土品の数々は世間に大きな衝撃を与えました。農具、漁労具や食器、武器や祭具など当時の暮らしや文化をつぶさに知ることのできる遺物が抜群の保存状態で大量に出土。弥生人の頭蓋骨と共に脳の一部が出土したことは、世界的にも貴重な大発見でした。腐敗や劣化を免れた要因は、遺跡が水分を大量に含んだ低湿地の中にあったこと。酸素の少ない真空パックのような環境に埋まっていたからこそ、当時の姿を保ったまま現代によみがえることができたのです。
1353点もの出土品が重要文化財に指定され、現在も地下に眠る歴史の謎の解明に向けて発掘調査が進む青谷上寺地遺跡は、まさに貴重な「地下の弥生博物館」です。
海上交易で交流盛んに
現在は日本海に面した小さな平野に位置する青谷上寺地遺跡。弥生時代は平野の奥まで海が入り込んでおり、沿岸に形成された穏やかなラグーン(堆積した土や砂によって海の一部が外海から隔てられ、湖沼化した地形のこと)のほとりに集落が営まれていました。人々は米を作り、狩りや漁をして暮らすほか、鉄器や石器・木製容器や宝飾品など、高度な物作りを盛んに行っていたことが分かっています。
さらに同遺跡の重要なポイントは他地域との「交流」。北陸・近畿・山陽地方の土器や石材に加え、大陸(中国・朝鮮半島)から運ばれてきた青銅製の貨幣や鏡が多数出土しています。港に適した自然の地形に恵まれた青谷上寺地遺跡は、幅広い地域の物や技術が行き交う「海上交易都市」として栄えていたのでしょう。
コンピューターグラフィックスで復元した弥生時代の景観
激動の時代 大量人骨の謎
青谷上寺地遺跡の大きな謎の一つが、女性や子どもを含む100体以上の人骨の発見です。墓に埋葬されることなく溝に散乱し、かなりの数の骨に鋭利な刃物による傷痕が認められました。彼らに一体何があったのでしょうか。
稲作の普及を契機に国家形成への歩みが進んだ弥生時代。人口が増え、集落が拡大する過程で社会は複雑化していきました。有力者が台頭し、身分の差が生まれ、土地や水を巡る争いも頻発。やがて優れたリーダーを王とする幾つもの国が各地に生まれました。2世紀後半には各地で国々が争う「倭国大乱」が発生。「卑弥呼」が邪馬台国の女王となって騒乱が鎮まったと言われています。
激動の時代、青谷地域では何が起こっていたのか、傷ついた人骨の正体は何者か、「倭国大乱」との関わりはあるのか。今後の調査の進展が期待されます。
また、骨のDNA解析を通じて人々のルーツを解明する研究も進んでいます。弥生時代以降、日本列島では大陸から移住してきた渡来人と在来の縄文人との混血が進みますが、青谷上寺地遺跡には、大陸に由来する人やその子孫、混血の人など、ルーツの多様な人々が暮らしていたことが判明。日本海を行き交うさまざまな人が集い、交流していた様子がうかがえます。
遺跡の価値 広く伝える
弥生時代の人々の営みが鮮やかに息づき、ダイナミックな歴史のうねりを感じることができる青谷上寺地遺跡。県では貴重な遺跡を適切に保存し、その魅力を広く伝えていくため、史跡エリアの公園整備を行っています。
2023年秋ごろには、いよいよ「展示ガイダンス施設」をはじめとする南側の地区を公開。その後、北側の史跡整備を進めていく予定です。どうぞご期待ください。
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