東京鳥取県人会は、1903年に旧鳥取藩主池田家ゆかりの人々を中心に「東京因伯郷友会」として発足し、戦後現在の名称に改め、2023年で設立120周年を迎える歴史と伝統を誇る団体です。
東京因伯郷友会の設立にあたり、総裁には旧鳥取藩主池田家の池田仲博候(1903~1948年)とし、初代会長には鳥取市出身の奥田義人氏(文部大臣、東京市長等を歴任、1903~1917年)が就任しました。このころ、会員たちが参集して池田家邸内で開催される春・秋2回の総会には、鳥取県出身の専門学校生や大学生も多数招待され、お互いの親睦を深めたということです。
その後、1948年には池田仲博総裁の死去に伴い、総裁制が廃止され、会長及び役員が総会での投票により決定することや年会費の徴収など、現在の東京鳥取県人会にも通じる組織体制が確立しました。
田子富彦6代目会長(神戸製鉄副社長、1955~1963年)の時代には、名称を現在の東京鳥取県人会へと変更し、併せて副会長及び常任幹事を東、中、西部から均等に選出する制度改革も行われました。
終戦前後の混乱の中、活動が低迷していた時期もありましたが、1963年に就任した澤田廉三7代目会長(1963~1970年)の時代には、待望の会報誌が創刊されました。表題は澤田会長の発案により県花にちなんだ「梨花」(春と秋の年2回発行)とされました。その後、梨花の発行は1972年の10号をもって一旦休刊となりましたが、県人会創立95周年の1998年に、会員からの強い要望により26年ぶりに復刊し、現在に至るまで年2~3回の発行を続けており、東京鳥取県人会を代表する活動の一つとなっています。(2023年8月現在71号まで発行)
その他、東京鳥取県人会においては、1950年の鳥取大学建設の際に100万円以上の寄付金を集めたり、1952年の鳥取大火の際には義援金募集大運動などが大々的に展開されるなど、郷土の一大事には会を挙げて活動を展開しています。
近年における東京鳥取県人会の取組みとしては、毎年会員が一堂に会して親睦を深める総会及び懇親の集いを開催し、はるばる鳥取県から知事や市町村長にも参加いただき、会員との交流を深めております。また、ゴルフや囲碁などの趣味の集まりや、歌舞伎・演劇や美術の鑑賞、グルメの会、鳥取県ゆかりの講演会などの文化行事も定期的に実施しており、他県の在京県人会にはない充実した特色ある取組みが行われています。
このように、東京鳥取県人会は東京因伯郷友会設立から今年で120周年となる歴史ある組織です。鳥取から遠方にありながらも今日まで盛んに活動が展開されているのは、先人たちの努力と郷土愛の賜物であり、それを大切に継承し、会の目的とする“会員相互の親睦と郷土への貢献”を、より暖かく優れた組織として発展させてゆきたいものです。
○東京鳥取県人会紋章
昭和29年頃、東京鳥取県人会の前身、東京因伯郷友会の会旗を作成する際に用いられた。この角輪の紋どころは、もともと池田藩政当時に陣中で使っていたものであったが(池田家の家紋は丸にあげは蝶)、当時この会の創立はすべて池田家の加護尽力によって発足し、また今後いつまでも池田家に対しての感謝の意を含めることとして会旗に加えられ、東京鳥取県人会となった今日まで引き継がれています。
現在、鳥取県出身者や縁故者など約700人が加入し、親睦を深めるとともに、郷土の発展に寄与することを目的として活動しています。
毎年秋には「総会と懇親の集い」を開催するほか、会報「梨花」の発行、ゴルフなどの趣味の会の開催など活発な活動を行っています。
会は会長、副会長、常任幹事、幹事らによって運営されていますが、これらの役員は県の東部、中部、西部の各ブロックから均等に選出され、事務局は鳥取県東京本部内(千代田区平河町2丁目6番3号 都道府県会館10階)に置かれています。
現在の正・副会長は以下の通りです(敬称略)。
■ 会長 福井 宏一郎 (倉吉市出身)
■ 副会長 長尾 克巳 (鳥取市(鹿野町)出身)
市川 祐一郎(倉吉市出身)
勝部 日出男 (米子市(淀江町)出身)