大正12年、日野郡日南町下阿毘縁に生まれる。阿毘縁高等小学校を経て、昭和17年に鳥取県師範学校(現鳥取大学)を卒業し、角盤国民学校に勤めるが、翌年東京音楽学校に入学する。
一時軍務につくが、終戦により復学。在学中は、下総皖一(音楽理論)、橋本国彦(指揮)などの授業を受け、昭和23年に同校を卒業し、群馬県師範学校及び群馬大学に勤務する。
昭和25年から36年まで東京学芸大学附属大泉小学校教諭として勤務する間に、「新しい子どものうた作曲研究会」同人となり、子どもの歌を多数作曲する。
昭和36年に東京学芸大学に配置換えとなり、講師、助教授、教授として音楽教育の研究と学生の教育にたずさわり、61年に退官し、名誉教授となる。
同年、文教大学教授に就任、平成五年に定年退職する。
昭和59年から63年まで日本音楽教育学会の会長を務めるなど、音楽教育界の発展に尽くす。昭和60年のわかとり国体では、作曲した「人工衛星の歌」が行進曲に採用される。平成11年、勲三等瑞宝章を受章。平成28年7月3日没。享年93歳。
人工衛星の歌 光のリズム ペタルをふんで 藤の花ゆらゆら ちるよ木の葉が