好評をいただいております『いにしえの祈りの風景』ですが、今回で最終回。仏形(ほとけがた)と神仏習合(しんぶつしゅうごう)について解説します。
飛鳥時代からはじまった祓(はらえ)の儀式には、人についている災厄を水に流すため、木製の人形(ひとがた)が使われますが、青谷横木(あおやよこぎ)遺跡でも飛鳥時代から平安時代にかけての人形が数多く出土しています。
その中には、首にある皺(しわ)のような3本線の「三道(さんどう)」や右肩を出して左肩を袈裟(けさ)で覆う「偏袒右肩(へんたんうけん)」といった仏さまの特徴を表現した人形がありました。また、三道が描かれ、袈裟を表現したと思われる2本の線が左肩に見られる人形もあり、こちらも仏さまを表現していた可能性があります。
元々、神道と関わりのある人形ですが、平安時代以降、日本古来の八百万(やおよろず)の神が仏の化身であるといった、神道と仏教とが融合する神仏習合の思想が進んだことにより、青谷横木の地で暮らしていた人々も、仏さまの姿に祈りを込めて災厄を水に流そうとしたのかも知れません。
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仏形
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「三道」と左肩に2本線のある人形
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[令和2年5月4日現在]
先週まで3回にわたり、ホームページ上でご紹介しました「いにしえの祈りの風景」ですが、好評につき、他の展示物についても紹介させていただくこととしました。第4回目は、蘇民将来(そみんしょうらい)のお札についてです。
蘇民将来については諸説ありますが、『釈日本紀』によると、次のようにあります。
スサノオノミコトが旅の途中で宿を頼んだ時、裕福な弟は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらももてなしたことから、後に再訪したスサノオが、蘇民将来の娘の腰に目印として茅の輪(ちのわ)をつけさせ、茅の輪をつけていない弟の一族を滅ぼしてしまいました。その後スサノオは「後に疫病が流行したら、蘇民将来の子孫と言って、茅の輪を腰につければ、疫病から逃れることができる。」と言いました。
この伝承に基づき、『蘇民将来』と記されたものが、古くから厄除けのお守りとして用いられていますが、青谷横木(あおやよこぎ)遺跡でも、「蘇民■来子孫家」と墨で書かれた10世紀頃のものと思われる木の板が出土しています。
現在でも、人形(ひとがた)と共に紙のお札としてお守りとされ、神社で行われる「茅の輪くぐり」と言われる神事としても知られている「蘇民将来」ですが、この伝承にあやかろうとする人々の祈りは、千年以上も続いていることが分かります。
出土した蘇民将来札
現代の紙製の人形と蘇民将来札
茅の輪くぐり
[令和2年4月掲載]
県立博物館「歴史の窓」コーナーで展示していた展示物についての解説の第3回目です。
今回紹介するのは、下坂本清合(しもさかもとせいごう)遺跡で出土したお経の書かれた須恵器(すえき)片です。須恵器は、古墳時代に日本に導入された登窯(のぼりがま)を使った焼き物で、現在の焼き物のご先祖様になります。その須恵器の大甕(おおがめ)の破片に、「高諂曲心…如是人難度…涅槃」と墨で文字が書かれていました。調べてみると、書かれた内容は『妙法蓮華経方便品第二』というお経の一部であることが分かりまし
た。恐らく元々は、もっと大きな破片にお経の全文が書かれていたのでしょう。
平安時代の終わり頃(11世紀頃)になると、「末法思想(まっぽうしそう)」と言われる考えが広まります。お釈迦(しゃか)様が亡くなってから、年月と共に仏教が衰え、世が乱れるという考えで、その末法元年は一般的に西暦1052年とされています。その頃は治安の悪化など社会情勢も悪く、人々はより一層この考えに傾倒していきました。そこで人々は、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が次の仏様となって人間界に現れる時まで、経塚(きょうづか)を造ったり、絵巻物、粘土板、木の板、河原石などに写経をすることでお経を残そうとしました。この須恵器片もそうした行動の一環だと思われます。ちなみに弥勒菩薩が現れるのは、お釈迦様が亡くなってから56億7千万年後だそうです。何とも気の遠くなる年月ですが、大事なものを後世に残そうとする姿は、地域の大切な文化財を残す、我々の仕事にも共通しています。「祈り」は今現在の自分達だけでなく、未来の人々へも向けられるものなのでしょう。
この他、室町時代の墨書土器も展示していましたが、これについては、当センターホームページの「まいせんお宝ミュージアム」で解説していますので、こちらもご覧ください(HP掲載先)。
3回にわたって解説しました「いにしえの祈りの風景」はいかがだったでしょうか?いにしえの人々の「祈り」は皆様に届きましたでしょうか?新型コロナウイルスの影響で展示会や講演会などが次々と中止や延期になっていますが、当センターはホームページやSNSなどを使って、より積極的に情報発信に努めてまいりますので、どうぞご期待ください。
墨書のある須恵器片
妙法蓮華経方便品第二
[令和2年4月掲載]
県立博物館「歴史の窓」コーナーで展示していた展示物についての解説の第2回目です。
今回は、気高町にある下坂本清合(しもさかもとせいごう)遺跡で出土した12~13世紀のものと思われる卒塔婆(そとば)です。卒塔婆は、サンスクリット語で仏塔を意味するストゥーパを語源とする、故人や先祖を供養するために立てられる木の板であり、現在でも仏式のお墓などで見られます。下坂本清合遺跡で出土した卒塔婆は3点あり、その内2点はほぼ完形で出土しました。この2点の卒塔婆はいずれも小型で、全長14.6cm、幅2.2cm、厚さ1.1cmのマツ属の板材を使っています。先端部を山形にし、両側面に切り込みを入れて、下端部に1本の軸が突出しています。また表面には、「南无阿弥陀佛(なむあみだぶつ)」の墨書があります。こうした形は珍しく、穴を開けた板などの台に立てて使われたと推定されます。似た例としては、佐賀県の1遺跡でわずかに認められている程度です。
12~13世紀の下坂本清合遺跡は、卒塔婆以外の仏教関連遺物が数多く出土しており、また高級食器である漆器も数多く出土し、建物跡も検出しています。現在はのどかな田園風景が広がっていますが、この時期には、寺院や有力者の館などがある、かなり大きな集落が営まれていたと考えられます。
卒塔婆
調査前の下坂本清合遺跡(南から)
[令和2年4月掲載]
令和2年3月24日から4月19日まで、県立博物館「歴史の窓」コーナーで展示を行うことにしていた「いにしえの祈りの風景」ですが、新型コロナウイルスの影響で県立博物館が5月6日まで閉館となりました。そこで、今回の展示物の主なものについて、3回に分けて当センターのホームページで詳しく解説いたします。
今回は第1回目。鳥取市気高町の会下・郡家(えげこおげ)遺跡で出土した平安時代のものと思われる髪を垂らした女性を表した人形(ひとがた)です。長さ20.5cm、幅5cm、厚さ0.9cmのスギの板材で、墨で顔面や手、衣服が描かれており、衣服の裾はまくられているようにも見えます。また、まくった裾からは女性器と思われる線刻を見て取ることができます。こうした例は埴輪(はにわ)にありますが、人形では初めてです。「天の岩戸」伝説で、アメノウズメノミコトが桶の上で胸や性器をあわらにして踊った描写があり、それと関係しているのかもしれません。
いずれにしても、大変珍しいもので、女性と祭祀との関係を考える上で重要な資料と言えます。
人形(右は赤外線)
[令和2年4月掲載]