昨年度、発掘調査によって主郭に大型の礎石建物跡がみつかった狗尸那城跡。6月14日から補足のトレンチ(試掘溝)調査を始めました。
山頂の城本体では、切岸の状況や、主郭部にある土塁に区画された窪んだ地形の様子を探っています。また、狗尸那城に関連する可能性がある山麓の平坦面にもトレンチを掘って、建物跡などがあるかどうかを確認する予定です。
調査は6月末までを予定しており、調査後には現地説明会を行い、調査成果を皆さんにお伝えしたいと思います。
写真1 窪んだ地形を調査中
写真2 切岸を調査中
[令和3年6月掲載]
令和2年7月2日、お昼ごろから雨が上がり、狗尸那城現地で5月から行ってきた発掘調査の結果を報道機関の方へ公開しました。
横堀、竪堀(写真1)の構造や、主郭の礎石建物(写真2)を説明し、記者のみなさんから詳しく取材いただきました。明日以降の新聞記事にもご注目ください。
写真1
写真2
写真は令和2年6月27日(土)に手前の歩道から撮ったものです。
手前側には蓮の花が咲き、遠く南側の向うには鷲峰山がそびえ、樹木で隠れていますが左側には鹿野城(王舎城)があります。
そして、右側奥の方向には先ごろ発掘調査を行った狗尸那(クシナ)城の稜線が遠くに見えます。
鹿野城が古城化したときに、それに代わる要害堅固な城として取り立てられたのが新鹿野城(狗尸那城)でした。
いずれも仏教に因む、蓮田と鷲峰山が南北に、王舎城と狗尸那城が東西に展開する構図で、ケシキとレキシをよくばる絶好のビュースポット。
じょうずな方が撮れられたら、インスタ映えすること請け合いです。
狗尸那城の調査研究も、山上部に加え、山麓部の補足調査をはじめました。
30度を超す暑い最中でしたが、地元の方の案内のもと、県内の研究者に同行していただき、狗尸那城を戴く山腹の古佛谷にあったとされる毫王山抱月寺の痕跡を探して歩きました。
昭和50年代に当地古仏谷で古老と城山談話をされた郷土史家の吉田浅雄さんによると、古仏谷と呼ぶこの地にかつて毫王山抱月寺が存在し、「昔日この谷間に開田中、数多くの五輪塔と生活器具の片々を掘り出した。」との逸話や「中世器物出土の古仏谷の平は標高130m付近、城主の居館及び被官屋敷比定の適地、元田畑、現荒廃」との補記が『山名第3号』(山名会)に載っています。
永禄7年(1564)に布施天神山城から鹿野に退去していた山名豊数ら山名衆を毛利衆と東伯耆衆が鹿野麓に襲い合戦となりましたが、鹿野郷にあった狗尸那城の山麓、抱月寺辺りの可能性もあるではないかとの想定のもと今回の踏査となりました。
抱月寺は慶長年間頃(1600年頃)に亀井茲矩公が明星谷の現在地に少林山譲伝寺と改称して移すまでの間はこの地にあったとされ、当時の様子をあらわした「鷲峯村絵図」にも狗尸那城と抱月寺が描かれています。
また、このたび県農林部局が編成した微地形表現図にも絵図に描かれた辺りに平坦地が現れています。今回、これらを片手に古仏谷から、会下谷の方に里道を入って行きました。
しばらく歩くと明治頃から3~4代続いたという3戸の民家跡が左手にあり、小さな平坦地もいくつかありましたが、いずれも田んぼ跡とのこと、更に進むと谷川を挟んで反対側に大きな田んぼ跡があったとのことでしたが、ブッシュに覆われていて近づくことさえできず、今回は断念しました。
案内いただいた方によると、子どもの頃に里道のさらに先を1.5kmほど行くと狗尸那城に行けたそうですが、これも断念しました。
古仏谷の入口
谷あいの様子
次回は天王さん(深谷神社)跡地です。
[令和2年6月掲載]
令和2年5月11日からはじめた狗尸那城の発掘調査ですが、令和2年6月10日でいったん調査を終えました。
現地説明会などに向け、その成果と課題について、鋭意取りまとめ段階に入りました。
県内には事例がない想定外の遺構が発見された(まだ内緒です)ことから、県内の研究者にも再度、県外からも豊富な経験をお持ちの山上さんに調査指導をお願いしました。
山上雅弘さんは、兵庫県立考古博物館や公益財団法人兵庫県まちづくり技術センターで兵庫県内各地域の中世城郭などの発掘調査を多く手掛けられました。隣県なので鳥取県の中世城郭や中世史についても一定の知見を持っておられます。
近畿や西日本をはじめ幅広く中世城郭について研究をされておられます。
センターでは、併せて現地説明会などに向けての準備にも取り掛かりました。
近々ご案内するようにしたいと思いますので、フェイスブック、ツイッター、それからホームページをお見逃しなく。
地上の気温は30度近く。
ですが、調査現場は標高350メートルの樹林に囲まれ太陽を遮ってくれるので少し低く感じます。
とはいえ、一日の作業が終わって帰路につく頃は疲れがないとは言えません。
そこで、ほっと一息つくような話題を。
(1)この日は見晴らしがよく、帰路に二重堀切の先の尾根を歩いていると、樹間のすき間から北方向にある逢坂谷と瑞穂・宝木谷がよく見えました。毛利方の宮吉城も視認できました。
(2)城域を外れて道すがら林道の脇に「きいちご」を見つけました。皆さん手に取って口にしていました。清涼剤になったかな。ウグイスのさえずりにも癒されます。
(3)山を下りて、小鷲河地区公民館から狗尸那城を見た遠景になります。また明日もがんばろう。
皆さんにご案内できるようになるのが待ち遠しいです。
(1)逢坂谷を望む
(1)瑞穂・宝木谷を望む
(2)道端のきいちご
(3)小鷲河地区公民館から狗尸那城を望む
[令和2年6月掲載]
主郭部の試掘が概ね終わり、約400年前の遺構面がおおよそ見えてきました。
地元で中世城郭に関する研究をされている先生方から、それぞれ文献史学と考古学の立場から現地で助言をいただきました。
助言も参考にしながら、引き続き調査研究を行っていきます。
[令和2年6月掲載]
鳥取市鹿野町にある狗尸那(くしな)城は域外の研究者や愛好家などには人気が出て来るようになりました。
しかし、実は地元の皆さんにはあまり知られていませんでした。
ところが、当センターで実施中の発掘調査を取材された地元紙が大きく取り上げられたこともあって、おかげさまで、3月に刊行した冊子『因幡武田と鹿野城』の売れ行きが好調で、地元でも話題になるなど、地元の皆さんの関心が高まって来ています。
今回、こうした動きを受けて、地元鳥取市鹿野町総合支所関係者の皆さんから出前説明のご要望があり、発掘調査に支障のない範囲で、縄張図により構造等について現地案内をさせていただきました。
皆さんはじめてで、中世の山城、それも大土木工事によって大がかりで巧妙な防御施設を施した土の城が地元鹿野町にあったことにおどろき、目を瞠っておられました。
いよいよ発掘調査も大詰めを迎えつつあります。
どこまで謎が解明できるのか、新たな謎が出てくるのか?
その成果等についてはもうしばらくお待ちください。
[令和2年6月掲載]
令和2年5月11日からはじめた狗尸那城の発掘調査ですが、現場における新型コロナウイルス対策や熱中症対策について紹介させていただきます。
新型コロナウイルス対策では、調査員や作業員等のマスク着用のほか、作業や休憩等も2メートル程度離れてするなど拡大防止対策を図るようにしています。
写真は、主郭部で区域を決定して表土剥ぎ作業を行おうとするところです。
建物の痕跡を確認するため、柱穴(掘立柱建物)や礎石(礎石建物)を探すための作業をしています。
過去の発掘調査事例から、柱の間隔が1間(7尺、2.1m)間隔となっているものがあり、その間隔を目安に探します。
ちょうどうまい具合にフィジカル・ディスタンスをとって作業できるようになりました。
また、現場が山の中で、仮設トイレが近くに設置できないため、2時間ごとに休憩・休息をとり、水分補給およびトイレ休憩を行うようにしています。
織田・毛利戦争で因幡を攻略した羽柴秀吉は、鹿野城番だった亀井茲矩に気多郡13,000石を与え鹿野城主に任じました。
茲矩は、領内の産業振興に努める一方、九州の大名以外で唯一朱印船貿易を行うなどした異色の近世大名でした。
貿易のほか、琉球守を所望したり、台州守を称するなど海外志向がみられ、鹿野城の櫓に「朝鮮櫓」「オランダ櫓」といった名前を付けたほか、仏教故事に因んだ呼称も多く残っています。
<地理では>
城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城下町の東側を流れる水谷(みずたに)川を流沙川(りゅうさがわ)、西側を流れる河内(こうち)川を跋堤川(ばったいがわ)、
城の南西に位置する秀峰を、釈迦が法華経などを説いた山として鷲峰(じゅうぼう)山、霊鷲山(りょうじゅせん)という呼称が伝えられています。
<城では>
古代インドの仏教の中心であるマガダ国の首都になぞらえて、鹿野城は王舎城(おうしゃじょう)、鹿野城の東側の城は金剛城(こんこのじょう)、西側の城は狗尸那城(くしなじょう)と呼はれています。
狗尸那は釈迦入滅の地クシナガラからの呼称と考えられます。
亀井家は1615年に石見津和野に転封になりますが、地元では今でも「亀井さん」として特別な愛着を持たれています。
令和2年3月に刊行した『因幡武田と鹿野城』では、こうした鹿野にまつわるトピックスも多く掲載しています。
[令和2年5月23日掲載]