現在、共同研究で行っている須恵器胎土分析の対象となる須恵器の写真撮影を行っています。
図面ではどうしても模式的になるので、写真も撮影して、実際の形状や質感などを表します。そのためには、遺物を照らす複数の照明のバランスや角度などを色々と試しながら、最適な状態にして撮影を行います。
今回一番苦戦したのが、写真のピント合わせ。久しぶりの遺物撮影だったのですが、一緒に撮影を行った同僚からショックな一言。「これピントがあってませんよ…。」私は視力がよく、これまでピント合わせには自信がありました。認めたくはありませんが、どうも老眼なるものになってきたようです。また、遺物によっては、しゃがんだまま撮影したりするので、腰の方にも少々ハリが…。昔、諸先輩たちがよく言っていた事を実感いたしました。
須恵器の胎土分析は、現在分析中で、結果は、来年度に予定しているシンポジウムでお知らせしたいと思います。どうぞお楽しみに。
写真撮影の様子
つまみ部分がボケている写真
ピントの合った写真
[令和3年12月11日掲載]
前回須恵器の胎土分析についてお知らせしましたが、その中で出雲や播磨でよく見られる特徴をもつ須恵器がある事をお話ししました。今回は、その事についてもう少し詳しくお話しします。
7世紀代になると、須恵器の蓋につまみが付くようになります。これは仏教が導入され、仏具の金属製のお椀の蓋を模したためと考えられます。全国的によく見られるのが(1)の宝珠形のつまみが付いたものです。それに対して、内側が凹んだ輪っかだけのつまみが(2)の輪状つまみです。この輪状つまみは、主に7世紀後半から8世紀前半の出雲地方でよくみられ、これまでの研究では、伯耆地方までよく見られますが、因幡地方では、ほとんど見つかっておらず、また胎土分析の結果では、米子市あたりまでは出雲産のものであることが分かっています。ところが、ここ10年の発掘調査、特に鳥取西道路の発掘調査の成果で、因幡地方でも、この輪状つまみが多く出土する遺跡が幾つかあることが明らかになりました。
今回の胎土分析研究では、こうした遠隔地で生産された須恵器と地元生産の須恵器、それぞれの流通がどのような関係であり、どのように変化していったのかということまで明らかにしていきたいと思います。
(1)須恵器蓋(宝珠つまみ)
(2)須恵器蓋(輪状つまみ)
[令和3年9月24日掲載]
昨年度から行っている研究事業「須恵器の産地同定からみる古代の流通と交通の研究」ですが、昨年度は県内の窯跡出土須恵器の胎土分析を実施し、今年度は消費地出土の須恵器の胎土分析を行うため、試料採取を行いました。
本来なら昨年同様、胎土分析の第一人者である岡山理科大学の白石純先生にお越しいただき、試料採取を行っていただくのですが、今年はコロナ禍のため、お出でいただくことができず、先生から工具をお借りして、当センター職員が試料採取を行いました。その数何と県内13遺跡で約380点!!できる限り少量の破片を採取することが出来ましたが、中々の重労働でした。
今後は、白石先生に採取した試料の分析をお願いし、窯跡出土資料との比較を通じて、どの窯の須恵器がどの地域まで運ばれていたのか、また出雲や播磨といった遠隔地でよく見られる特徴をもつ須恵器が、実際に運ばれてきたものか、それともこちらでつくったものか等を明らかにしていきます。これらの成果は、来年度以降シンポジウムなどで発表していきたいと思いますので、どうぞお楽しみに。
試料採取の様子
採取した試料(須恵器から長さ1cm程度の小さな破片を採取します。)
約380点の試料
[令和3年9月掲載]
先日の菊花賞で、コントレイルが史上3頭目の無敗の3冠馬となり、大きな話題となりました。コントレイルは当県の伯耆町にある「大山ヒルズ」で調教された馬で、当県でもこの快挙に盛り上がりました。
実は大山山麓を中心とした伯耆国(鳥取県中・西部)は、古代から馬の生産地として知られています。『延喜式』という10世紀の文献資料には、伯耆国にある牧(馬などの放牧地)として「古布馬牧」が記されています。これは現在の東伯郡琴浦町別宮周辺に当たると考えられます。また、10~11世紀の文献である『小右記』には、「伯耆国八橋野牧」の記述があります。こちらも同じく琴浦町の八橋にあったと思われます。
考古学ではどうでしょうか?西伯郡との境にある米子市吉谷中馬場山(よしたになかばばやま)遺跡では、8~9世紀頃の須恵器坏の底面に「牧」と書かれた墨書土器が出土しました。また、馬を囲うためと思われる区画された溝も検出されており、この地に牧があったと考えられます。
奈良・平安時代は、各地に官営の牧が設置され、生産された馬は都に運ばれたり、各地域の駅家などの施設で利用されました。伯耆国では先に述べた「古布馬牧」が官営の牧になります。吉谷中馬場山遺跡の牧が、どのような性格のものかは不明ですが、古代から大山山麓を中心とした伯耆国は、馬の生産に適しており、それが現代にまで続いていることが分かります。
吉谷中馬場山遺跡出土墨書土器「牧」
(アップ写真)
吉谷中馬場山遺跡区画溝
[令和2年10月掲載]
今年度(令和2年)から新たに当センターで立ち上げた研究事業として、「須恵器の産地同定からみる古代の流通と交通の研究」があります。県内の窯跡から出土した須恵器と消費地で出土した須恵器の胎土分析を行って、どの窯の須恵器がどの地域まで運ばれていたのかを明らかにし、当時の流通や交通について研究するものです。
今年度は、まず生産地である窯跡出土資料を分析対象として、土器胎土分析の第一人者である岡山理科大学の白石純教授にお越しいただき、下坂(おりさか)2号窯など八頭町私都(きさいち)周辺の窯跡群と鳥取市河原町にある天神原窯跡で出土した須恵器230点余りから極少量の試料を採取しました。
採取した試料の分析は白石先生にお願いし、その結果は今年度中に分かる予定です。新たな情報が分かり次第、ホームページ等でお知らせしていきますので、お楽しみに。
試料採取をした須恵器
試料採取の様子
[令和2年6月掲載]