江府町の吉原集落は、江戸時代末期までは小柳と呼ばれていました。伝説によれば、小柳の地名の由来は次のようなものです。
ある猟師が1頭の狼を山中深く追いかけ、ついに矢で仕留めた。ところが、近づいてみるとそれは狼ではなく、金色に輝く仏像だった。猟師は恐れおののき、これは自分がいつも殺生をしているので仏の罰が当たったのだと考え、その仏像を大山寺にまつり、自らはその足で僧になった。
この猟師には一人娘がいて、風の便りに父が僧になったことを知り、大山寺にやって来た。娘は父に一緒に帰ろうと泣いて頼んだが、父は「私は御仏に仕える身だから帰れない。お前ひとりで家に帰り、末永く幸せに暮らせ」と言い、翌朝、峠まで見送った。峠で父子最後の食事をし、父はその箸を地面に突き刺し、泣きながら「ここで別れよう」と言った。
この逸話から、人々はこの地を「児爺泣き(こやなき)」と呼ぶようになり、それがのちに「こやなぎ」となった。また、父子が箸を立てて別れた場所は「箸立て」と呼ばれるようになった。
この言い伝えがたとえフィクションによるものだとしても、吉原が古くは大山参詣の人々の休息場として賑わっていたことを示す証左のひとつと言えます。(ちなみに、「箸立て」という場所は今も集落内に残っています)
その大山参詣の旅人たちが疲れた体を休め、渇いた喉を潤おしたのが、当時から「大清水」と呼ばれていた美味しい湧水の出る場所です。
今もその場所には、ご覧のように、夏は冷たく冬は温かい清水がこんこんと湧き出ています。
大清水は吉原集落の象徴であり、また誇りなのです。
その大清水に、このほど看板が立てられました。
「吉原の伝説と大清水」と題された案内看板で、町内外から水汲みに来る人たちのために、そして吉原住民自身の誇りを喚起するために、「鳥取県中山間地域づくりサポート体制構築事業費補助金」を活用して製作・設置されたものです。
8月18日、集落住民が集まって看板のお披露目セレモニーが行われました。紅白のひもを引いたのは自治会長さんと、この企画を発案した笑和会(60歳以上の全住民で構成された相互扶助団体)の会長さん、そして集落最長老で看板の題字を書かれた清水要範さん。
お披露目の後は、看板周辺の草刈り・整地と邪魔な立木の伐採が行われました。
重機も活躍します。
この日は、鳥取市に本部を置くNPO法人学生人材バンクの農山村ボランティアの皆さんが駆けつけてくれました。鳥大生4人、職員・スタッフ4人の計8人。
紅一点の女子学生も、ほぼ自分のおじいさん世代の方々と力を合わせて石運び。吉原集落の高齢化率は、今や60%に近づいています。
その頃、別班は農道わきの草刈りに着手。こちらも人海戦術で楽々終了。
休憩時にはこんな光景も。
それから、こんな光景も。
さあ、お昼です。例によって、お母さん方手づくりのご馳走をいただきながらの交流会。
あちらこちらに歓談の輪ができました。そうそう、この調子です。
住民の皆さんからは、「やっぱり、こーゆーことをせにゃあいけんなあ」という声が聞かれました。また、「来年に予定しているイノシシ防護柵の設置作業にも、学生さんたちに来てもらおうじゃないか」という話も出たりして、大変有意義な一日になりました。
あ、そうだ、なぜ集落の名前が小柳から吉原に変わったのかを最後に。
江戸時代末期、小柳村に何度も大火事が起きたため、縁起をかついで村の名前を変えようということになったそうなのですが、では、なぜ吉原という名になったのかについての記録は、今のところ見つかっていません。
ところが今回、前述の最長老・清水さんに集落の名所を案内していただいた際、こんな話を聞いたのです。
「わしが若かった頃、このあたりは沼地で、アシ(葦)がいっぱい生えとった」
アシはヨシとも言います。一面にヨシが繁る場所→ヨシの原→吉原・・・
今は奥大山特産の美味しい米を育てる豊かな水田に変貌したその場所を眺めながら、そんな想像をしてみたのでした。
日野振興局 2014/08/27