昭和55年(1980)11月23日、鳥取市伏野で採集
歌詞
法師 法師 どこの子 スギナのまま子
一本法師は 出んもんだ 二本三本 出るもんだ(伝承者:明治35年生)
解説
鳥取県下では、春先に野山に自生しているツクシのことを法師と呼んでいる。それはツクシの頭がお坊さんに似ているところから出た命名であろうかと思われる。やがてこのツクシは、しばらくするとスギナに変わって行く。そこを人々は想像をたくましくして「スギナのまま子」とたとえて歌にしているのである。鳥取県下に類歌は多く、詞章の発想は同じである。
法師ゃどこの子 スギナのまま子 おじの銭ぅ盗んで タイを買うて食ろうて
タイの骨が喉んつまって ガアガアとぬかいた(鳥取市用瀬町宮原・明治30年生)
法師 法師 出串(でぐし)スギナの孫子
親子三人 ちょいと出え(溝口町溝口・明治32年生)
島根県下での収録は、わずか一例しかない。
彼岸坊主は どこの子 スギナのかかあの オト息子(桜江町川越・明治2年生まれ)
春の彼岸時分に顔を出すツクシを見て、スギナのお母さんの一番下の子であろうとしているのである。
わたしはわが国が第二次世界大戦に突入した昭和16年に国民学校に入学しているが、そのときの国語の教科書に次の歌が掲載されていたのを思い出す。
ぽかぽかと あたたかい ひに つくしの ぼうやは めを だした
つくし だれのこ すぎなの こ
なぜか知らず、子ども心ながら、わたしはこの素朴な詩を好んでいた。
わたしは当時、大阪に住んでおり、そこでこの詩を学んだのである。
戦争はしだいに激しくなって行き、わたしは終戦の年の春、父のふるさと松江市へ家族そろって疎開してきた。そして郊外で初めてツクシやスギナの実物を見る機会を得たのであった。
これが教科書に出ていたあのツクシやスギナかと、わたしは懐かしいものでも見るような気分で、それを眺めたことを思い出す。そのときは戦争の厳しさについても、しばらく忘却していたのであった。
それにしても、戦時中でありながら、教科書に載せられていたこの詩もまた、山陰両県で見つけた穏やかな伝承わらべ歌の心と全く同じであったのである。