「鳥取県立中央病院」となるまで

鳥取県立中央病院の前身は、1891年、鳥取市本町1丁目(現在の遷喬小学校校庭付近)に建設された私立因幡病院とされています。私立因幡病院には病室が63室あり、当時県内最大規模の病院でした。設置者は倉吉市の医師、伊藤健藏氏です。私立因幡病院は翌年に、「伊藤病院」に改称されています。

健藏の養子伊藤隼三氏は、鳥取市御弓町出身で、東京大学を卒業後医学の道に進み、27歳のときに伊藤病院の病院長になりました。その後同氏は、国外留学を経て、京都帝国大学(後の京都大学)医科教授となり、38歳のときに同大学附属病院の病院長になりました。
隼三氏は、大正13(1924)年に大学病院を定年退官すると、故郷の伊藤病院で再び診療活動にあたり、昭和4(1929)年に65歳で亡くなりました。

昭和6(1931)年、伊藤病院は、3代目の病院長である伊藤肇氏より鳥取市に寄贈され、名称が鳥取市立鳥取病院に改められました。

その後、戦時中の昭和17(1942)年に設立された日本医療団により各道府県に総合病院を整備する構想が進められ、鳥取市立鳥取病院は鳥取県の総合病院に位置付けられ、名称が日本医療団鳥取県立中央病院に変更されました。

昭和18(1943)年、日本医療団鳥取県立中央病院は、鳥取大地震により大半が倒壊又は焼失し、建替えが行われました。

戦後、日本医療団の解散に伴い、日本医療団鳥取県立中央病院は鳥取県に移管され、昭和24(1949)年、現在の鳥取県立中央病院になりました。

伊藤医院鳥取大地震後に建替えられた建物
 (左)伊藤医院 (右)鳥取大地震後に建替えられた建物

鬼手天心像

鬼手天心と名付けられた彫像は、伊藤本家の子孫で彫刻家の伊藤宝城氏により製作され、鳥取県立中央病院の礎となった伊藤家の貢献に対する顕彰碑として、昭和31(1956)年、当時の病院玄関に建立されました。
鬼手天心像は、右手に髑髏、左肩に男児を肩車した外科医の像で、「死の際から生へと導き手術室を後にした青年医師の喜びを表している」ということです。
鬼手天心像

<参考文献> ※本稿は、下記の文献を参照しました。 

  • 森納著「因伯の医師たち(昭和54(1979)年)」より「伊藤健蔵と隼三」の項
  • 鳥取県立中央病院50周年記念誌(平成11(1999)年発行)
  • 日本海新聞(平成18(2006)年10月12日)鳥取県の美術家たちより「伊藤宝城」

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