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とっとり考古学フォーラム Q&A集

とっとり考古学フォーラムQ&Aのお知らせ

 令和元年9月1日に行いました、『とっとり考古学フォーラム 戦国時代の転換点 3つの籠城戦を読み解く』で、会場の方から講師先生の発表内容について質問をいただきました。その中から次のとおり講師の先生方に回答をいただきました。

 

特別講演「戦国の世を生きる人々-雑兵・軍役・年貢-」伊藤正義先生

Q太閤検地で、生産性が低いところ(藩?)では新田開発を行ったのでしょうか?

 

A→甲斐国(山梨県)の富士川水系に残っている「信玄堤」の遺構は、発掘調査の 結果から近世・江戸時代の構築物であることが判明しています。大規模な河川の治水は、統一権力が確立されて戦場が閉鎖された、近世・江戸時代になってから可能になります。戦国時代は、戦国大名権力の下に中小の国衆領主が従属していましたが、戦国大名は各国衆領主の領地の統治には介入出来ませんでした。各国衆領主は独自に自分の領地の小河川の治水に取り組んでいましたので、戦国時代の新田開発は、小河川の流域に限定されていたと考えられます。
 「豊臣平和令」による日本国内の戦場の閉鎖は、天正十九年(1591)九月の北東北の「九戸政実の乱」の平定によって達成されましたが、秀吉は同年一月に諸国に軍船建造を命じ、十月には九州の大名たちに肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の築城を命じています。国内の戦場の閉鎖と背中合わせで朝鮮半島での戦場が開幕していたのです。
 全国統一の「太閤検地」は、秀吉の朝鮮出兵計画と連動して、文禄年間(1592~)に実施されました。文禄年間の「太閤検地」は、全国の大名たちの軍役負担高を確定する基礎データになりました。太閤秀吉は、肥前名護屋城の築城、名護屋城在陣、朝鮮半島出陣で、全国の大名に「際限のない軍役負担」を強いましたので(徳川家康と前田利家は留守居役で渡海せず)、大名たちは大規模な河川の治水と新田開発を実施する余力は無かったはずです。全国各地で近世大名が中規模と大規模な河川の治水と用水路の整備を実施するのは、慶長三年(1598)八月の秀吉の死去によって、日本軍が朝鮮半島から撤収した以降に開始されたと考えられます。「際限のない軍役負担」が解除されて、新田開発に軍役負担高を振り向けることが可能になったのです。

 

Q頸城郡の上杉景勝直属の地侍は、馬廻など役職によって優遇されていたのでしょうか?

 

A→越後守護上杉氏の守護代は長尾氏で、守護代長尾氏にはいくつかの有力な分家がいました。長尾景虎(謙信)は府中長尾氏の当主です。府中長尾氏と最も対立したのが魚沼郡の坂戸城を本拠地にする上田長尾氏です。景虎(謙信)は、上田長尾氏当主の政景を暗殺して越後国主の地位を確立し、小田原北条氏から逐われた関東管領上杉憲政を越後府中の御館に迎え入れて、憲政の養子になって上杉氏と関東管領の名跡を継承しました。
 謙信は、上田政景に嫁いだ姉の息子・景勝(謙信の甥)と、小田原北条氏との同盟の証人の北条三郎・景虎を養子にしていたが、天正六年(1578)三月に跡目を決めないまま死去しました。謙信の跡目を巡って景勝と景虎が越後の国衆を二分して争う「御館の乱」が勃発して、景勝が勝利して八年に内乱は終息しました。
 景勝を支えた主力は実家の魚沼郡の上田衆です。頸城郡の国衆と地侍たちの多くは、「御館の乱」で景虎方に付いて没落するか領地を大幅に削減されました。景勝の直臣団は、景勝が謙信の養子に入る際に上田長尾氏から付けられた「五十騎衆」で、乱後に「五十騎衆」が馬廻衆に取り立てられます。頸城郡で生き残った国衆と地侍たちは、上杉景勝・直江兼続(上田衆)権力からは疎外されますが、景勝に味方した中小の在村の地侍たちは、小身の家臣・奉行衆として景勝・兼続権力に組み入れられました。景勝・兼続権力は、頸城郡の在地の実情に精通している在村の地侍たちを支配体制の中に取り込まないと、頸城郡の在地支配と軍事編成のシステムを維持できなかったのです。

 

Qフォーラムの事例研究にある中国地方の毛利氏や尼子氏では軍役負担は、どうなっていたのでしょうか?

 

A→越後国の上杉氏以外では、軍役負担高の実態は良く分かっていないのが実情です。上杉謙信・景勝の膝下で、春日山城が所在する頸城郡では村高の2割程度が年貢高、8割程度が軍役負担高に当たられていました。平時の軍役負担高は、通常の軍事訓練費と春日山城の警固役で、村高の2割程度だったと推定されます。平時には村高の6割が村に免除給付されてストックされます。軍役負担高が異常に高い頸城郡では、ハイリスク・ハイリターンの税制と軍制だったのです。
 17世紀前半の村上藩検地の年貢率は4割ですので、戦国大名の直轄地以外の国衆領主の軍役高は6割程度と推定して間違いないと思います。遠隔地の瀬波郡の色部領では村高の4程度が年貢高、6割程度が軍役負担高に当たられていました。平時の軍役負担高は、通常の軍事訓練費と平林城の警固役で、村高の2割程度だったと推定されます。瀬波郡色部領では平時には村高の4割が村に免除給付されてストックされます。戦国大名の直轄地以外では、ローリスク・ローリターンの税制と軍制だったのです。
 出雲国では富田月山城膝下の能義郡が、安芸国では吉田郡山城膝下の高田郡が、越後国の頸城郡型の軍役負担高だったと推定されますが、文献史料が残っていないために不詳です。小田原北条氏に付いては、家臣の軍役・諸役の負担高を定めた、16世紀中頃成立の『小田原所領役帳』が残されています。小田原城膝下の相模国西郡は直臣団の小田原衆の所領、西郡に接する中郡は直臣家臣たちの所領で、小田原城から東に離れるほど国衆の所領が増えています。相模国では西郡が越後国の頸城郡型の軍役負担高だったと推定されます。出雲国では尼子氏の、安芸国では毛利氏の家臣団の所領の分布状態を復元して分析出来れば、地域ごとに軍役負担高が異なっていたことを証明出来るかも知れません。

 

Q戦国時代に輸送を行う人(川並衆のような人々)は大名の庇護に置かれていたのでしょうか?

 

A→山の民と川の民は非農業民です。戦国大名は、国境地帯の山の民は隣接する戦国大名の両方に両属することを認める場合がありました―相模国の北条氏と甲斐国の武田氏の両方に従属して、越後国の上杉氏と出羽国の伊達氏に両属して、両方に年貢・諸役を負担する(半手(はんて)・半納(はんのう)・半所務(はんしょむ))。―。両属地は、交易流通路で、両方の戦国大名の勢力がぶつかって、微妙にバランスがとれた地帯で成立しました。戦国大名は両属地では勝手に軍事動員を命じることは出来ませんでした。両属地は、両方の戦国大名の支配権が拮抗して入り交じるが故に、一種の平和地帯だったのです。政治的・軍事的には対立していても、交易流通路が完全には閉じない両属地は、両方の戦国大名にとっては、好都合な安全弁だったのでしょう。
 美濃国と尾張国の国境地帯の木曽川流域に盤踞する川並衆も両属の地侍集団だったと思います。川並衆は、山の民と同様に、美濃の齋藤氏が優勢であれば齋藤氏に、尾張の織田氏が優勢であれば織田氏に簡単に寝返ります。齋藤氏と織田氏は川並衆を味方に付けるために、川並衆の木曽川支配の特権と自立性を認めざるを得ませんでした。山の民と川の民の特権と自立性は、2つの戦国大名権力が競合するバランスの上に成立していたのですから、織田信長が美濃国を併合すると、川並衆の特権と自立性は低下していったと推定されます。

 

事例研究1「安芸郡山合戦と城~尼子・毛利・大内の戦略~」秋本哲治先生

Q郡山合戦での大内・毛利方の勝因は尼子方が雪と寒さで引き揚げたことではないのでしょうか?

  A→合戦そのものは引き分けであったが、侵攻した尼子方が撤退したので結果として大内方が勝ったともいえる。撤退理由は、雪や寒さが士気の低下を招いたことも当然考えられるが直接的な理由とはいえない。尼子本隊と宮崎長尾の別部隊が分断された上に補給路が断たれたことや、大内軍の犠牲を厭わない総攻撃により、これ以上の滞陣は勝ち目がなく危険と判断したためと思われる。

 

Q山に残された城跡の規模から尼子・大内が動員した兵力が推定できますか?
 推定できるとしたら、どのくらい動員があるのでしょうか?

 

A→平坦地の総面積を計算すればその陣跡ごとの最大収容人員を試算することは、可能かもしれない。
 ただし、陣替などもあり、すべての陣跡が同時期に使われていたとは考えにくいので、尼子軍が実際に3万いたか、大内軍が1万以上いたかを証明することは難しい。

 

事例研究2「月山富田城籠城戦~対大内・毛利との攻防と戦前戦後~」高屋茂男先生

Q大内義隆は月山富田城攻めで敗退し、戦意を喪失したと書かれた本を見かけるが、実際は違うのでしょうか?

 

A→確かにこれまでの書物の中には、大内義隆が戦意を喪失したと記すものがあり、通説となっていますが、近年の研究では、その後も改めて出雲攻めの意思を示していることや、多くの死傷者を出したものの屋台骨は揺るがなかったという見方が出てきています。実際に出雲への再出兵は行われなかったものの、その後備後から肥前に至る大内の最大版図を築いています。

 

Q毛利の尼子攻めで籠城した残兵をせん滅しなかったことでその後、禍根が残ったように見えます。吉川元春、小早川隆景の意見を聞き入れなかった毛利元就はどういう心境だったのでしょうか?

 

A→出雲国人で毛利方に寝返った本城常光など、粛清された一族もいますが、投降してきた国人の多くが許され、その後も毛利家の家臣として存続しているものも多くいます。ですので、大局で考えて行動していたのではないでしょうか。

 

事例研究3 「秀吉の因幡侵攻-そのとき東伯耆は-」 眞田廣幸先生

Q秀吉の第2次因幡攻めは氷ノ山越えで因幡へ入ったのでしょうか?
戸倉峠は使っていなかったのでしょうか?

 

A→秀吉は、6月27日(8月6日)に姫路城を発ち、但馬の小代一揆を平定。7月9日まで小代(現在の兵庫県香美町小代区)に滞在し、後因幡に侵攻します。そして、7月12日(8月21日)には鳥取城近くに陣を寄せています。小代から因幡への交通路は現在も氷ノ仙越えが唯一となります。したがいまして、秀吉は票の氷ノ仙を越えて因幡に入ったと考えられます。戸倉峠は、小代区と山塊を隔てた別な谷を通る道になりますので秀吉軍は通っていないと思われます。

 

Q「正受院固屋」の場所についてはどんな論でお考えですか?史料と遺構は残っていますか?

 

A→「正受院」は、山名師義の戒名「右衛門権佐師儀正受院殿大盛興大禅城門」に因むもので、時氏が建立した光考寺(現山名寺)の塔頭です。この正受院で羽衣石城主の南条宗勝が永禄6年(1563)父の三十三回忌を営んでいます。
現在の山名寺周辺で正受院の場所を探しますと、倉吉市教育委員会が発掘調査された上養水遺跡(倉吉市田内)が該当しそうです。遺跡は中世の陶磁器や石敷遺構などが出土しています。また、上養水遺跡の近くには、伯耆民談記が山名時氏の居城という「田内城跡」が位置しています。この田内城が「正受院固屋」に比定できると考えています。上養水遺跡は、工場の敷地に造成されていますが、田内城跡は曲輪跡などがよく残っています。

 

Q経家が鳥取城に入城する前に、先遣隊は鳥取城の実情を把握していなかったのでしょうか?事前の調査はなかったのでしょうか?

 

A→毛利方の先遣隊は、鳥取城の兵糧不足を把握(『新鳥取県史 古代中世1 古文書編下』333頁)していたと推測できます。むろん、吉川経家も把握していたと思われます。その量は、加番衆・国衆合わせて千余の籠城軍が10月までぎりぎり持ちこたえる程度だったと思われますが、誤算だったのは食料事情がかなり悪い農民達が秀吉軍によって鳥取城に追い込まれたことだったのではないでしょうか。このため、一挙に兵糧不足が進行していったと思っています。

 

総括について 伊藤正義先生

Q聞き逃したかもしれませんが、「戦国時代の転換点」は、どういう点にみられ、またどういう意味で使われていたのでしょうか。

 

A→天正九年(1581)十月に鳥取城が開城降伏すると、毛利氏の勢力は橋津川沿いまで後退しました。これによって、織田勢の羽柴秀吉の播磨国支配は背後を突かれる危険性が無くなり、秀吉は備前の宇喜多氏を取り込み、備中まで進出して毛利氏と対峙することが出来ました。小田原の北条氏政は、武田勝頼に対抗するために信長と同盟を結んで、武蔵・相模・伊豆国を確保して、北関東の上野・下野国を信長に割譲しました。信長は天正十年三月に甲斐の武田勝頼を滅ぼしました。『信長公記』では武田氏の討滅を「関東平均(へいぎん)」と記しています。信長は、関東を平定したことによって、「武家の棟梁」の地位を確立したのです。
 信長は武田勝頼討滅後に四国の長曽我部氏攻めと山陽の備中攻めに取り掛かります。四国攻めと備中攻めは、六月の本能寺の変で頓挫しましたが、信長の中国と四国での支配権確立の実現性は、因幡と東伯耆の確保によって担保された訳ですので、羽石城での補給路封鎖戦と鳥取城の攻城戦こそが、信長の全国統一事業達成への転換点だったことになります。
 甲子園のベストゲームは準々決勝戦です。信長は、準々決勝で山陰の吉川氏に僅差で競り勝って、準決勝で甲斐の武田勝頼を大差で打ち破り、毛利氏との決勝戦の前夜に自刃して果てましたが、準決勝までは辛勝の連続でした。もう一つの準々決勝は徳川家康と武田勝頼の東海地方の戦いでした。こちらも家康が勝頼に僅差で競り勝ったナイスゲームでした。秀吉は、準決勝の対吉川氏戦で最優秀殊勲選手になって、織田家中の宿老(柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉)の中でダークホースに躍り出たのです。山陰の戦いは、秀吉にとっても、信長の後継者になり得る可能性を掴み取った転換点だったのです。
  

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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