防災・危機管理情報


調査・研究(木製品)

第4回調査研究成果発表会でいただいた質問について(3)

 令和5225日(土)の4回調査研究成果発表会の発表についての質問、その3です。

  Q&A(その1)(その2)については、こちらをクリックしてください。

(その1) (その2)

○発表3「令和4年度 古代山陰道の発掘調査成果」について

Q.古代山陰道は勝部川(かちべがわ)をどのようにして渡ったのでしょうか。

A.残念ながら、青谷地域では痕跡が見つかっていないため、日置川や勝部川をどのように渡河したのかはわかっていません。しかし、奈良時代初めに編さんされた「出雲国風土記」には、島根県安来市の飯梨(いいなし)川に橋を架けた例や、枉北道(おうほくどう)に渡し船が設置されたことが記載されていますので、青谷地域でも同様に、橋または渡し船を利用して渡河していたと考えられます。

〇鳥取県埋蔵文化財センターホームページ

河川の渡河について、詳しくはこちらをクリックしてください

 

Q.国史跡になり得る主な特徴を改めて教えて下さい。

A.史跡とは、「文化財保護法」では,「貝塚,古墳,都城跡,城跡,旧宅,その他の遺跡で,我が国にとって歴史上または学術上価値の高いもの」のうち重要なものとされています。

 青谷の古代山陰道は町全域で路線がほぼ確定でき、遺構の残りも非常に良く、丘陵や平野部に敷設された道路の構造が明瞭に観察できます。道路遺構は何度も補修を繰り返して利用されることが多く、元々の形が壊されて分からなくなる例が多いことから、古代官道を丸ごと復元できる青谷町は非常に稀有な地域であり、古代官道を研究する上で、非常に重要な地域と言えます。

 丘陵上では、頂部に大規模な切通しの痕跡が残り、尾根幅が狭い鞍部では約9mもある道路幅を維持するため、大規模な盛土造成を行っています。また、斜面部の傾斜がきつい場所では、官道に「つづら折り」が採用されたことが全国で初めて明らかとなりました。

 平野部の低湿地では、古代山陰道は盛土により構築されました。盛土を強固に維持するために、朝鮮半島から伝わった当時の最新技術である「敷葉(しきば)・敷粗朶(しきそだ)工法」により盛土の沈下や排水機能を高め、路面には小礫を敷いて通行しやすい工夫がされました。

 このように、青谷の古代山陰道の調査研究成果は多義にわたり、全国の古代官道の縮図と言っても過言ではなく、まさに「我が国にとって歴史上または学術上価値の高いもの」と考えられます。

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養郷宮之脇遺跡 つづら折り

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養郷狐谷遺跡 丘陵鞍部の造成

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青谷上寺地遺跡 低湿地の古代山陰道

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青谷上寺地遺跡 敷葉・敷粗朶工法


第4回調査研究成果発表会でいただいた質問について(2)

 令和5225日(土)の4回調査研究成果発表会の発表についての質問、その2です。

Q&A(その1)については、こちらをクリックしてください→(その1)

○発表2「遺跡・文化財で知るふるさとの魅力~地域歴史教材の『ふるさとキャリア教育』活用~」について

Q.文化財の出版物、報告物には、一般(成人)向けのものが多いが、小学生むき、中学生むきに貴センター等で出版されているものがあるか、あるいは今後の予定があるか。もっと子どもから(大人まで)読める読み物、刊行物が計画してほしい。

A.当センター刊行書籍の中には、小中学校以上の児童・生徒を対象とし、地域の歴史を最新の研究成果で紹介している「鳥取県の考古学シリーズ全6巻」があります。このシリーズ書籍は、児童・生徒、そして、皆様にもご覧いただけるよう県内の小中学校、高等学校、図書館等に配布しております。

 また、「ふるさとキャリア教育」を進めるため、今後も地域の歴史を児童・生徒に紹介する書籍、パンフレット等の刊行を行って参りたいと思います。

 

Q.研究の課題はないですか。定量的な評価はできませんか。

A.当センターが行っている「ふるさとキャリア教育」の実施についての課題は、授業後のアンケートに見られる郷土愛について、児童・生徒達がその後どこまで維持しているか、授業時以上に大きくしているかなどが確認できないことです。これは、ご質問にある「定量的な評価」にも関わってくるものです。

 このことについては、今後、各学校に協力いただき、追跡アンケート等を実施、分析を行うことを現在、検討しているところです。

 

○発表4「千代川左岸における古墳時代前期の様相」について

Q.前方後円墳が造られるようになった理由は分かったが、方墳が円墳に移行した理由は何でしょうか。

A.円形を基本とする前方後円墳と同じく、円墳も円形であるという点から、前方後円墳と関係が深いことが想定されます。ヤマトと関わりをもち、その関係性を示すために円形を基本とする場合、前方後円墳を築くほどではなかった人々は円墳を築いた可能性が考えられます。なお、「方墳」は、弥生時代の墳丘墓の系譜を引く、山陰地方の伝統的な墓の形ですので、方墳から円墳に移行したのは、ヤマトやすでにヤマトと密接な関係を築いた地域との関係が生じたことの反映であると考えられます。

 なお、古墳時代中頃になっても方墳を造り続けている古墳群もあり、ヤマトやすでに前方後円墳を築いていた地域との関係の疎密さ、あるいは古墳を造営していた集団の性格(保守的か革新的か、など)が反映されている可能性があります。

 

Q.墳形の変化は中央ヤマト王権の墓形の変化に伴ったものと、出身地(半島)の墓形を引き継いだものがあるような気がしますが、いかがですか。竪穴式と横穴式石室の分布も教えてください。

A.朝鮮半島の墓制は、確かに地域ごとに墓の形は異なります。明らかに半島系の墓制が日本列島内に出現するのは、古墳時代前期後半に北部九州に横穴式石室が導入されたことが初現です。しかし、古墳を造った人々が半島からやってきたのか否かは、明らかにし難いといえます。埋葬施設の形態や埋葬方法、副葬品などを考えると、被葬者は半島出身者とみるよりも地元の者であったと考える方が理解しやすいと考えています。

 竪穴石槨(たてあなせっかく)と横穴式石室ですが、竪穴石槨は古墳時代前期を中心に前半期の、横穴式石室は古墳時代後期の埋葬施設で、まず営まれる時期が異なります。竪穴石槨は、大王墓など大型古墳の埋葬施設に用いられることが多く、古墳時代前半期における上位の埋葬施設と考えられます。県内では馬ノ山4号墳(湯梨浜町)が有名ですが、その他にはあまり例がありません。横穴式石室は、古墳時代中期の終わり頃に県内にも導入されますが、一般的になるのは後期後葉になってからです。また、県内でも、江戸時代までの旧郡程度の範囲で、平面形や石の積み方などに特色がある、地域色の強い横穴式石室が見られるのが特徴です。


第4回調査研究成果発表会でいただいた質問について(1)

 令和5225日(土)に開催した、4回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会での調査研究成果の発表4本について、それぞれ会場から複数の御質問をいただきました。

 各発表者からの回答の分量が多くなったこともあり、3回に分けて掲載していきます。

○発表1「縄文時代のかごを復元する-ヒノキ材の加工法の検討-」について

Q.材料は佐々木氏の研究を紹介されたが、工法、編み方などの技術について、他地域との比較、鳥取の特徴はどうなっていますか。

A.関東地方の東京都下宅部(しもやけべ)遺跡のカゴはササ類の割り裂き材が使われています。復元実験ではアズマネザサの稈(かん:枝葉が付く茎の部分)を現代の竹割鉈で分割しましたが、石器を使用した加工の検証も行われています。また刃物を使わなくても、横から叩き割ることできれいな4等分割、8等分割のヒゴ素材が採れることもわかっています。このヒゴ素材の表皮をはいで厚みを調整してヒゴ材が作られます。その編み方は「網代編み」、「ゴザ目編み」、「四つ目編み」、「六つ目編み」、「市松編み」など、バリエーション豊かです。九州地方の佐賀県東名(ひがしみょう)遺跡のカゴはムクロジ・イヌビワのへぎ材と、ツヅラフジ・テイカカズラのツルが使われています。へぎ材とは木材を割り裂いて薄い板状やテープ状に加工したものです。編み方は底部から胴体の下半部までが網代編み、上半部がゴザ目編み、中間部には装飾的にもじり編みが施されるなど、かごの部位によって編み方を変えています。

 北陸地方の遺跡では材料と編み方に関連があるようです。ヒノキやアスナロなどの針葉樹の割り裂き材は「もじり編み」、ササ類やムクロジなどの板状の素材は網代編みや市松編みといった具合です。割り裂き材を使った編み方はもじり編みのほかにも、ヨコ材をタテ材で交互に上下で挟み、タテ材とヨコ材の交差部分を別の1本のヨコ材(巻き付け材)で絡めていく「かがり編み」があります。

 鳥取県の縄文時代のカゴ類が出土した遺跡には高住井手添(たかずみいでぞえ)遺跡のほかにも、布勢(ふせ)遺跡・桂見(かつらみ)遺跡・栗谷(くりたに)遺跡があります。カゴのほとんどはヒノキの割り裂き材を使ったもじり編みによるものですが、栗谷遺跡から1点だけ、網代編みのカゴが見つかっています。このほかにもカゴのように立体的なものではない平面的な編み物は、割り裂き材のタテ材とヨコ材を格子状に組み、その交点を巻き付け材で緊縛しています。これは北陸地方のかがり編みに似ていますが、全く別の編み方です。

 このように素材の性質によってかごの編み方は変わるようです。もじり編みのかごは隙間が大きく、網代編みのかごは密になります。縄文時代の鳥取県のかごはもじり編みが優勢ですが、栗谷遺跡で網代編みの出土例があることから、用途に応じてかごの編み方を変えていたと考えられます。弥生時代になると全国的にカゴの素材はツル植物やササ類が主体となり、編み方は網代編みが優勢となります。

 

Q.割きやすさでは、材料として枝部分を使ったと思われますが、実際に出土しているカゴや未製品の年輪の状況からも証明できるでしょうか。
A.鳥取県林業試験場の職員の方と、樹種同定の専門の先生に伺ったところでは、ヒゴ材から幹材と枝材を判別することは難しいとのことでした。

第4回調査研究成果発表会を開催しました!

 令和5225日(土)に、第4回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会を開催しました!

 令和4年度「因伯山城写真コンクール」表彰式につづき、当センター職員による以下の調査研究成果の発表4本を行いました。

 発表1「縄文時代のかごを復元する-ヒノキ材の加工法の検討-」

 発表2「遺跡・文化財で知るふるさとの魅力~地域歴史教材の『ふるさとキャリア教育』活用~」

 発表3「令和4年度古代山陰道の発掘調査成果」

 発表4「千代川左岸における古墳時代前期の様相」

 会場、オンライン合わせ、46名の参加者があり、皆さん熱心に御聴講、御視聴いただきました。アンケートでも、「以前、縄文時代のかごを復元することを聞いていたが、その具体的な過程についてよく分かった」「ふるさとキャリア教育は、地域の歴史を身近に捉えることができ面白いと思った」「今後の調査研究成果が楽しみ」と好評をいただきました。来年度以降も引き続き調査研究を行い、その成果をお知らせしていきたいと思いますので、どうぞお楽しみに。

 なお、今回は時間の関係で質疑の時間を設けませんでしたが、それぞれの発表に多くの質問をいただきました。準備が整いしだい回答を掲載していきますので、しばらくお待ちください。

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発表の様子(1)

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発表の様子(2)


ナスビ形曲柄鍬の紹介

 今年度中に保存処理を行った出土木製品の中から、今回はナスビ形曲柄鍬(なすびがたまがりえぐわ)を紹介します。(写真1)

 左側は鳥取市松原田中(まつばらたなか)遺跡から出土した弥生時代後期~古墳時代前期ごろ(約18001600年前)のもの、右側は鳥取市高住牛輪谷(たかずみうしわだに)遺跡から出土した古墳時代終末期(約1400年前)のものです。

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写真1 ナスビ形曲柄鍬

(左:松原田中遺跡、右:高住牛輪谷遺跡)

 ナスビ形の名前は、鍬の身(刃が付いているほう)がヘタの付いたナスビを縦に割ったような形をしていることに由来しています。現在でも使われている鍬は直柄鍬(なおえぐわ)といって、鍬の身にまっすぐな柄を差し込んでいますが、曲柄鍬は屈曲した柄の先と身の上側の細くなっている部分写真2)を紐で縛り付けて固定していました(図1)

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写真2 鍬の柄を装着した部分

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図1 曲柄鍬の身と柄の装着復元図

 ナスビ形曲柄鍬は弥生時代中期の中ごろ(約2200年前)、吉備地方(現在の岡山県)で生まれました。従来から使われていた直柄鍬よりも土を深く耕すことができたため、瞬く間に西日本と北陸を中心に各地へ広まりましたが、古墳時代が終わったころには使われなくなりました。それには鉄の普及が大きく関わっています。

 古墳時代の中ごろ(約1500年前)に朝鮮半島からU字形をした鉄製の鍬の刃(写真3)が伝わり、ナスビ形曲柄鍬の先に装着されるようになりました(図2)

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写真3 U字形鉄刃(青谷横木遺跡、奈良・平安時代)

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図2 U字形鉄刃装着復元図

 しかし鉄は重たいため、鍬の身と柄を紐で縛るだけではぐらついてしまいます。そこで身と柄の装着部分に穴をあけて、栓を刺して固定するようになりました。ところがもともと細い鍬の身の上部に穴をあけたため(写真4)、十分な強度が得られませんでした。

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写真4 栓を刺して固定するための穴

 こうしてナスビ形曲柄鍬は姿を消し、代わって鉄刃を装着した直柄鍬(風呂鍬(ふろぐわ))は昭和の時代になるまで使われていました。

参考図書:樋上昇「樹木と暮らす古代人 木製品が語る弥生・古墳時代」吉川弘文館


「第4回調査研究成果発表会の聞きどころ」その4

 令和5225日(土)に開催する、第4回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会の聞きどころ、最終第4回は発表1「縄文時代のかごを復元する-ヒノキ材の加工法の検討-」(発表者:家塚文化財主事)です。

 当センターでは、鳥取市高住井手添(たかずみいでぞえ)遺跡から出土した、今から約2,800年前の縄文時代のかごの復元製作に取り組んでいます。そのかごは細いひご状のものを編んで作られているのですが、原材料は何だと思いますか。竹?ツル?正解は家の建材やお風呂でおなじみの、ヒノキです。

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 縄文人はどうやってヒノキからかごを作ったのでしょうか。復元製作を通して縄文人の知恵と技術が見えてきます。

 知られざる縄文人のかご作り、これは聞き逃せません!

 お申込みは222日(水)までとなっていますので、どうぞお早めに。


「第4回調査研究成果発表会の聞きどころ」その3

 令和5年2月25日(土)に開催する、第4回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会の聞きどころ、第3回は、発表2「遺跡・文化財で知る ふるさとの魅力~地域歴史教材の 『 ふるさとキャリア教育 』 活用~」(発表者:中山課長補佐)です。

 みなさんは、「ふるさとキャリア教育」という言葉を聞かれたことはありますか?

 これは現在、鳥取県、県教育委員会が進めている、当県の未来を担う子ども達の郷土愛の醸成をねらった取組みです。当県の人口減少対策の一つとして県内各学校で実施されています。

 当センターは、各学校の歴史授業等に地元の遺跡を教材として活用することを通して、この「ふるさとキャリア教育」の一翼を担っています。地元の遺跡・文化財を知ることは地元の魅力ある歴史を知ることに、また地元の歴史を知ることは地元の素晴らしさを知り、郷土愛を育むことになります。そして、何より遺跡・文化財は地元の宝、その宝を詳しく知ることは子ども達自身の誇りに繋がります。

 成果発表会では、「ふるさとキャリア教育」という観点で令和4年度に実施した各学校での歴史授業、そして、教員向け研修等について紹介します。

 鳥取の未来を創る「ふるさとキャリア教育」の実践を是非お聞きください!!

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地元の前方後円墳 本高14号墳を教材にした授業


「第4回調査研究成果発表会の聞きどころ」その2

 令和5225日(土)に開催する、第4回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会の聞きどころ、第2回は、発表3「令和4年度 古代山陰道の発掘調査成果」(発表者:森本文化財主事)です。

 青谷地域の古代山陰道は、古代官道では全国初となる「つづら折り」の発見や、大規模な土木工事の痕跡など、重要な発見が相次いでいます。青谷の東側丘陵と平野部は、発掘調査によりほぼ路線が確定し、今年度中にはその調査成果をまとめた報告書が刊行される予定です。残るは西側丘陵の古代山陰道の路線確定です。

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 現在、昨年度に引き続き、西側丘陵の発掘調査を進めており、その最新調査成果を報告します。どうぞお楽しみに!

 定員までまだまだ余裕はありますが、お申込みはお早めにお願いします。


「第4回調査研究成果発表会の聞きどころ」その1

 令和52月25日(土)に開催する、第4回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会の聞きどころ、発表内容を紹介していきます。

 トップバッターは、発表4「千代川左岸における古墳時代前期の様相」(発表者:東方係長)です。

 最近、何かと注目される「古墳」。実は、鳥取県は全国有数の古墳数を誇る、隠れた「古墳王国」なのです。なかでも、鳥取平野の千代川左岸は、大型の前方後円墳や古い時期の古墳が特に集中しており、鳥取県における古墳時代の幕開けやヤマトとの関わりなどを考える上で貴重な地域です。

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 今回の発表では、この地域でこれまでに行われた発掘調査や測量調査の情報を整理し、鳥取平野の古墳時代の始まりの様子に迫っていきます。御期待ください!

 定員までまだまだ余裕はありますが、お申込みはお早めにお願いします。


保存処理委託を行った木製品の保存処理が無事終了しました!!

 令和4年6月下旬に保存処理のために旅だった木製品の処理が無事に終了し、令和5年1月30日に埋蔵文化財センターに戻ってきました(写真1)

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写真1

 今回は、その中から乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)から出土した漁労具(ぎょろうぐ)を紹介します。

 乙亥正屋敷廻遺跡からは、弥生時代後期後半から終末期(2世紀後半から3世紀前半頃)のタモ枠ないし網枠と呼ばれる2種類の網の部材が出土しています。一つは、柄の部分と網を付ける枠木が一木で作られたものです(写真2)

 もう一つは、柄の部分と網を付ける枠木が別材で作られたものです(写真3)。 いずれも枠木の素材にはカヤを利用しています。これらは、弥生時代から古墳時代のものを中心として、国内の広い範囲で出土例があります。鳥取県でも青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取市青谷町)から、これらの類似品が出土しています。

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写真2

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 写真3

 その中で後者のもの(写真3)は、これまで枠木の部分のみが出土し、柄の部分とどのように組み合わさるのか実資料ではよくわかっていなかった接続方法を明らかにできる資料です。写真3のように、枠木と柄を接続する部分の材が枠木に装着された状態で出土しており、『木器集成図録 近畿原始篇』(奈良国立文化財研究所編1993年)に掲載された民具等からの着柄法推定図が実資料で明らかになったと考えられます。

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木器集成図録 近畿原始篇から転載 

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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