当センターでは、「地元の遺跡や歴史を学びたい!」、「遺跡ウオークをしたい!」など、皆さんが希望・企画された講演や現地案内に、当センターの専門職員を講師として派遣する「出前講演」を受け付けており、地域の遺跡や歴史を学ぶお手伝いをしています。秋になって、出前講演に出ることが多くなってきました。
■令和4年10月22日(土)に開催された「東郷歴史散歩」(主催:東郷地区健康づくり推進員協議会)では、古墳や遺跡の解説をしました。
3月に当センター主催で本高・古海古墳群ウオークを行ったのですが、そこに参加された地元の方が、地域の方にも古墳や遺跡についてぜひ知ってもらいたいと企画されたものです。前回と同じルートで、本高14号墳と本高弓ノ木遺跡を歩きました。
本高14号墳では、前方部を通って後円部へ上がるのですが、後円部で後ろを振り返ると眼下には鳥取平野が広がり、遠く扇ノ山までを見渡すことができます。皆さん「わー、すごい!」と感心され、その眺めを楽しんでおられました。
前方部を通って後円部に上がる
古墳の上では、古墳の概要や副葬品、周辺の古墳や遺跡について解説するとともに、この地に山陰最古の前方後円墳が築かれた理由について説明しました。参加された方からは、「この古墳に埋葬された人はどんな人だったのですか?」「どのような埋葬施設があるのでしょうか?」「今後、古墳を調査する予定はあるのですか?」など、多くの質問もいただきました。
職員の解説を聞く参加者
■令和4年10月23日(日)には、鳥取市米里地区公民館主催の「米里まつり」で、古墳に関する講演と、古墳のジオラマ作りを行いました。
同地区は、鳥取平野南部を代表する大型前方後円墳、古郡家1号墳をはじめ、周辺に古墳が多数築かれています。古郡家1号墳は、昨年度新たに航空レーザー測量なども行っていることから、そうした最新の調査成果から分かったことなどを解説しました。
講演の様子
古墳のジオラマ作りに没頭
そのあと、古郡家1号墳のレーザー測量成果をもとにした「古墳ジオラマ」作りを体験していただきました。3Dプリンタで出力した古墳は、そのままでも形がよく分かりますが、接着剤で砂やコケを貼り付けると、約1,650年前の古墳の姿がよみがえります。参加された皆さんはそれぞれの古墳を完成させ、「とても楽しかった」「家に飾ります」と喜んでおられました。
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地域の宝であるこうした古墳や遺跡をもっと地元の多くの方々に知っていただき、地域の歴史や文化財に関心が高まればいいと考えており、今後もこうした出前講演を行ってきますので、お気軽にお問い合わせください。
令和4年10月26日(水)に日南町総合文化センターで「日野の山城を読み解く」と題して、出前講演を行いました。
鳥取県の南西部に位置する日南町は、西は出雲、南は備後、備中と接しています。戦国時代、出雲の月山富田城(がっさんとだじょう)を本拠とする尼子(あまご)氏の影響を強く受けたこの地域は、鉄を産出するとともに、瀬戸内へ抜ける重要な中継点にあたるためか、尼子氏の直臣が配置されたようです。平成15年までに実施した「鳥取県中世城館詳細分布調査」では町内に39か所の城跡を確認していますが、その他に城跡の可能性がある地形も見られ、まだまだ調査が必要です。
講演では多くの個性豊かな城跡の内、亀井山城(かめいやまじょう:日南町生山(しょうやま))、亀尾山城(かめおやまじょう:日南町多里(たり))、湯谷城(ゆだにじょう:日南町多里(たり))をご紹介しました。
このうち亀井山城には石垣、亀尾山城には石垣(石積みかもしれません)と瓦片がみられることから、両城はいわゆる織豊系(しょくほうけい)城郭と考えることができるもので、日野地域において重要な城と考えられます。亀尾山城の対岸に築かれた湯谷城は、麓に根小屋(ねごや:山麓の居住空間)を備え、山腹には畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん:畑の畝のように竪堀をいくつも並べた防御施設)や3連続の堀切が設けられるなど、周囲の山城にない豊富な防御施設が魅力の山城です。
大変興味深く講演を聞いていただき、参加された方から、「お城なので話だけでなく現物を見て、体感したい。」などの感想をいただきました。亀井山城は令和3年に登山を行いました。また、魅力ある山城への現地案内を企画したいと思います。
会場の様子
令和3年4月17日(土)に「かわはら春フェスin霊石山(れいせきざん)」で遺跡ガイド(出前講演)を行いました。当日はあいにくの雨でしたが、40名もの方々が参加されました。このウォークは霊石山を山麓から山頂まで踏破するのですが、その途中のポイント、ポイントで遺跡にまつわる解説をしていくというものでした。
あまり知られていないかもしれませんが、霊石山麓には80基を超える稲常古墳群、山頂には最勝寺山城があります。また、その周辺にある奈良・平安時代の官道である古代因幡道推定地や中世の山城など見渡すことができます。
参加者の皆様は、霊石山に多くの古墳があることに驚かれ、山頂にある山城の堀跡などの痕跡に大変興味を持っておられました。そして、雨中にもかかわらず山頂から見える鳥取平野の美しさや遠くに見える鳥取城跡、因幡の国人である武田高信の本拠地、鵯尾城(ひよどりおじょう)跡をご覧になって大変感動されていました。
登山途中で周辺の山城・因幡道を説明
山頂の最勝寺山城跡の痕跡を探索中
最勝寺山城跡縄張図
山頂から見える風景に感動!!
令和3年1月21日(木)に、浜坂小学校で火おこし体験の出前講座を行いました。今回は、授業とクラブ活動での「火おこし体験」に合計39名の児童が参加しました。実は昨年の12月に行う予定でしたが、大雪で中止となった経緯もあり、児童は火おこし体験を心待ちにしていたようでした。体験道具を準備している私達に興味を持ったのか、笑顔で「これは何に使う道具ですか?」とか「知ってる!火をおこす道具だ」などと話しかけてくれました。
まず最初に舞ギリ、火キリ臼など道具の説明を行い、実際にお手本として当センター職員が火おこしを実演しました。実際に火がつくと、「すごい!」「おー火がついた」などの声が児童達から上がりました。
その後、グループに分かれて火おこしに挑戦したのですが、よく火がついたグループは、何回火がつくのか挑戦し、結果5回も火をおこすことに成功していました。残念ながら火がつかなかったグループは、「何で火がつかないんですか」、「どうしたらつくんですか」など聞いてきましたが、やはり火がつかないのはとても悔しかったのか、「明日も来るんですか」とか「どこに行ったら火おこしが出来ますか」などの声もたくさんありました。
現在は簡単に火を使うことが出来ますが、古代の人たちの火おこしの大変さ火の大切さを実感してもらえたのではないかと思います。
説明を受ける児童たち
火おこしをしている様子
火種を吹く様子
令和2年12月19日(土)に気高町歴史講座で「古代山陰道を学ぶ」と題し出前講演を行いました。毎年4、5回開催され、40~50名の参加者がある人気講座のようですが、今回は新型コロナウィルス感染拡大防止のため20名限定での開催となりました。
講座では、鳥取市青谷町で進める古代山陰道の発掘調査について、最新の調査成果をお伝えし、国内初の発見となったつづら折りの道路遺構などについて解説しました。古代山陰道のすばらしさを感じていただけたようで、終了後には下記のようなたくさんのご感想をお寄せいただきました。今後の調査研究に対する期待度も高く、来年度に向けてしっかり準備していきたいと思います。
講座のようす
【いただいた感想】
令和2年12月12日(土)に第6回青谷上寺地遺跡ボランティア講座で講義「青谷の古代山陰道-令和1・2年度発掘調査成果」と実習「古代のコマづくり」を行いました。
国史跡青谷上寺地遺跡では史跡整備が本格的にスタートしたところですが、この講座は、史跡活用に向け、さまざまな活動を支えるボランティアを養成する講座で、鳥取市青谷町総合支所が事務局となって進めていらっしゃいます。今回は14名のボランティアのうち、8名の方が参加されました。
前半の講義では、国内初の発見となった青谷東側丘陵のつづら折りの調査成果などを解説しました。参加者からは「古代山陰道は青谷の日置川や勝部川をどのように渡っていたのか?」などの質問や、来年度予定している西側丘陵の発掘調査に対する期待をいただきました。
後半の実習では古代のコマづくりを行いました。現代にように軸をもつコマではなく、古代のコマはむちでたたいて回すコマでした。「叩き独楽」「むち独楽」と呼ばれ、鳥取県内の遺跡では常松大谷遺跡や会下・郡家遺跡(いずれも鳥取市)などで出土しています。製作自体は比較的簡単ですが、実際に回すのが難しかったようで、かなり苦労されていました。回りだすと、最後は皆さん夢中になって楽しんでいらっしゃいました。
講座の様子
完成した古代のコマ
製作後、実際にコマを回している様子。
令和2年12月11日(金)、琴浦町の寿大学で出前講演を行い、7名の方に参加いただきました。今回は平成28・30年度に発掘調査が行われた山ノ下遺跡の調査成果について報告しました。
倉吉市に所在する山ノ下遺跡は、平安時代のおわりごろ(11世紀後半から12世紀)に規格的に配置された大型建物が造営されます。大型建物は県内で例を見ない規模を誇り(最大建物の面積は237.5平方メートル)、中国でつくられた陶磁器などの貴重な遺物も出土していることから、当時、伯耆国で急速に勢力を拡大した倉吉市南部を拠点とする小鴨氏に関連する施設である可能性が考えられています。
講演では大型建物の構造や柱穴の造り、土師器や須恵器、中国でつくられた陶磁器といった出土遺物などを中心に解説をしました。大型建物の柱穴は基礎固めにより非常に強固な造りとなっていることから、参加者のみなさんは当時の建築技術に感心しておられました。
また、小鴨氏が船上山山頂付近にあったとされる金石寺(こんじゃくじ)に梵鐘(839年鋳造)を寄進したと伝えられており、琴浦町にも小鴨氏とのゆかりがあることを紹介すると、とても感慨深げに聞かれていました。
解説の様子
令和2年12月9日(水)に、鳥取市稲葉山地区公民館で出前講座を行いました。
今回は、「郷土の歴史発見」と言うテーマでお申込みいただきましたので、稲葉山地区とその周辺の遺跡の中から、「立川(たちかわ)遺跡」、「滝山経塚(たきやまきょうづか)」、「爵山城(しゃくやまじょう)」を中心に取り上げ、それぞれの遺跡の概要、主な出土品や遺構などについて、パワーポイントと資料を用いて解説しました。
皆さん、お住まいの地域の歴史には関心があるようで、とても熱心に聴講されており、終了後には多くの質問や感想などをいただきました。
取り上げた遺跡のうち、立川遺跡は昭和25年に地元の中学校が発掘した歴史があるのですが、生徒として実際にその調査に参加されていたという方がおられ、思いがけない貴重な証言をいただきました。
また、公民館の目の前の丘陵が中世の爵山城ですので、公民館としてもすぐ近くにあることを生かして「ウオーキングを計画しようか」などという声が上がっていました。
今回の講座をきっかけに、地元の歴史に興味を持っていただければありがたいと思います。
令和2年11月22日(日)に開催された「鹿野城・流し山ウォーク」(鳥取市鹿野往来交流館童里夢主催)で、「流し山」地区をご案内しました。
「流し山」とは鹿野城が築かれた妙見山(標高150m)の後ろにそびえる尾根部(標高200m)で、南北に延びる細い尾根の各所に堀切状の遺構が見られ、今の鹿野城にはない古い時代の面影が残された場所です。この「流し山」と鹿野城に挟まれた場所は尾根が大きく窪んだ鞍部で、江戸時代の地誌、『因幡誌』には「切通(「きりとおし」か)」として伝えられています。
ウォークの前半は鹿野城の西麓に残る古刹、光輪寺裏から鞍部の上へと登ります。この道は鷲峰山への登山路でもあり、尾根筋に残る「流し山」の遺構(堀切など)を観察しながら、「流し山」の頂上までご案内しました。後半は鹿野城へ裏側から登り、天守台へ登った後、中世史研究者の高橋正弘さんの解説により、下山しながらかつて昭和56年の発掘調査で確認された石垣の痕跡や、礎石建物跡を見て歩きました。
午前・午後2回のウォークには計25名の方が参加され、参加者からは「(流し山)は堀切と言われないとわからない」、「(流し山)頂上の堀切は立派」、「亀井玆矩がいたころのお城はどんな様子だったのだろう」、「鹿野城は石垣を注意して見たことはなかった」などの声が聞かれ、「流し山」、鹿野城を見つめ直していただくきっかけになりました。
現地案内の様子(鹿野城)
令和2年11月13日(金)、琴浦町の寿大学で出前講演を行い、10名の方に参加いただきました。テーマは「古代・中世の食事」でした。
食べ物という身近なテーマであることや私の講演が今回で3回目ということもあり、いつも以上にご参加の皆様と打ち解けた講演会となりました。
話の中で、弥生時代に米作りが始まり、「ご飯」と「おかず」という食べ方になったこと、弥生時代のお米の収穫量が少ないため「栗ご飯」のように他のものとお米を炊いて量を増していたと推測されることを説明すると、「栗ご飯」の歴史の長さに驚かれていました。
奈良時代には、全国から税として集められたものが貴族、役人の食事に出され、因幡国・伯耆国からは鮭が都に送られていたことをお話しすると、「中部の川でも昔、鮭を見たことがある。」と有益な情報を教えていただけました。また、鮭だけでなく「わかめ」も都に送られ、都でも評判がよかったという説があることを説明すると、「送ったのは、「板わかめ」ですか?」という声もありました。
講演の最後に、「今日はとても身近な話題で、おもしろく話が聞けた。」という感想をいただき、私も達成感のある講演会でした。
講演会の様子