“地下の弥生博物館”青谷上寺地遺跡は、鳥取県鳥取市青谷町にある弥生時代前期の終わり頃(約2400年前)から古墳時代前期(約1,700年前)にかけて営まれた集落遺跡で、平成20年に国史跡に指定されました。
遺跡は、山陰自動車道の建設に伴って発見されました。弥生時代の人々が活動の拠点とした微高地からは、掘立柱の建物跡、火を焚いた跡、貝塚などが見つかり、玉作りや木器製作など、様々なものづくりに使われた道具や、中国大陸や朝鮮半島で製作された金属製品が出土しています。また、ムラの周辺に掘られた溝の中からは、多量の木製品、骨角製品、人骨など、膨大な遺物が出土しました。
注目されるのは、木製品、骨角製品、金属製品などが、どれもすばらしい保存状態で地中に埋もれていたことです。当時の暮らしや社会の姿を具体的に知ることができる超一級の文化財であり、主要な出土品1,353点が、令和元年に国の重要文化財に指定されています。
青谷かみじち史跡公園の開園は、令和6年3月24日を予定しており、出土品などを展示する展示ガイダンス施設も同時オープンします。
【詳しい解説】
現在の青谷平野(赤線範囲は遺跡の中心域)(画像をクリックすると拡大します)
これまでの発掘調査状況(画像をクリックすると拡大します)
青谷上寺地遺跡は日本海に面した小さな平野に立地しています。下の動画は、発掘調査などで得た情報を基に弥生時代後期(今から1,800年前)の遺跡周辺の景観を復元したコンピューターグラフィックス(CG)です。
弥生人の活動の拠点となった中心域の北東側には潟湖(ラグーン)が広がり、その背後に広がる湿地では米作りが行われていました。また、周辺の丘陵には常緑広葉樹の林、谷間にはスギの原生林が広がっていたようです。
ところが、古墳時代前期(約1,700年前)頃になると、約700年もの間、利用されてきた活動拠点は、次第に衰退します。その後、河川が運ぶ土砂の堆積により潟湖が縮小し、青谷平野が形成されました。
1800年前の青谷平野~景観復元CG~(画像をクリックすると拡大します)
青谷の原風景【動画】~青谷上寺地遺跡景観復元CG~(mp4.外部リンク)
青谷上寺地遺跡に暮らしていた弥生時代の人々は、漁労や海上交易を積極的に行っていたと考えられています。
集落の目前にあるラグーンや、その外に広がる日本海を舞台に船を操り、魚や貝などを獲ると共に、鉄製品などの貴重品を入手するため、遠方の人々と交流していました。
青谷上寺地遺跡の漁労具(画像をクリックすると拡大します)
【詳しい解説】
砂洲によって外海と隔てられた潟湖(ラグーン)は波おだやかで、小型の船の乗り入れに適した環境だったと思われます。数々の船の破片や櫂が出土していることから、潟湖のほとりには、どこかに船着き場があったと想定されます。
中国や朝鮮半島製の鉄器や青銅製の銅銭・鏡、ガラス玉などの交易品が青谷上寺地遺跡には持ち込まれています。一方で北陸で産出される碧玉という石を入手して当時のアクセサリーである管玉に加工したり、木製の秀麗な容器を製作したりして、日本海沿岸の各地に輸出していました。
活動の拠点となった微高地ではその他にも鉄器や石器、木器や骨角器の製作が行われていました。発掘では製品はもとより、これらの原材料や加工途中の未成品、製作中に捨てられた切れ端、鉄製や石製の加工具などが多数出土しています。青谷上寺地遺跡はものづくりの盛んな村だったようです。
日本海沿岸の主な潟湖(潟湖跡)と青谷上寺地遺跡をめぐる交流
(画像をクリックすると拡大します)
【詳しい解説】
低地や海浜などの水辺の環境は、弥生人の暮らしにとって大切な空間でした。青谷上寺地遺跡からは、弥生人が食料にしていた動物や魚の骨、貝殻、コメやアワなどの穀物や木の実などがたくさん出土しており、青谷に住む弥生人が潟湖やその周辺の山、水田などから恩恵を受けていたことが分かります。
川や潟湖、水田などで使われた漁労具と農具(画像をクリックすると拡大します)
【詳しい解説】
弥生時代の人々にとって、「祭り」は大変重要な行為でした。中でも春の種まきや田植え、秋の収穫といった農作業の節目には、豊穣を祈り、感謝する盛大な祭りが執り行われたと考えられます。また、交易の拠点であったことから、航海の安全などを目的とした祭りも、執り行われたことでしょう。
青谷上寺地遺跡からは、船形や武器形などの形代、卜骨、琴といった祭りで使われた道具がたくさん見つかっています。こうした祭りの道具からは、当時の人々の切実な願いが伝わってくるようです。
祭りの道具(画像をクリックすると拡大します)
【詳しい解説】
青谷上寺地遺跡の弥生人が活動の拠点としたのは、東西170m、南北200m程度の微高地でした。彼らは微高地の周囲に溝を掘り、溝の側壁は、多くの場合、杭や板で護岸していました。付近では、飛砂を防ぐための木柵も見つかっています。
溝は埋没するたびに何度も修復をされていました。ものづくりと交易の拠点となる場所を懸命に維持していたことが分かります。
活動の拠点「中心域」(画像をクリックすると拡大します)
【詳しい解説】
2世紀頃に埋まった溝から、約5300点(109体分)の人骨が出土しました。人骨はバラバラに散乱しており、鋭利な刃物による傷痕が残っているものもありました。
出土した人骨のDNA分析によれば、分析結果が得られた32体の人骨のミトコンドリアDNAに29系統のグループがあることが分かりました。その有り様は、まるで人々が離合集散を繰り返す都市の様相を呈しています。青谷上寺地遺跡には、従来の「弥生の集落=農村」というイメージは当てはまらないといえそうです。日本海を行きかう人々が青谷上寺地遺跡に集い暮らしていた様子がうかがわれます。
脳が残っていた頭蓋骨
【詳しい解説】