どのような部署をたどられたのかを伺いたいです。
昭和59年6月1日付けで保健師として採用(新社会人)となり、最初は鳥取保健所(現・鳥取市保健所)に配属になり、その後倉吉保健所、米子保健所と赴任しました。その後に児童福祉施設である県立皆成学園に4年行きました。
その次に初めて本庁勤務があり、当時の健康対策課(現・健康政策課)に配属されます。これが30代後半の時です。その後倉吉保健所に3年、続いて本庁の長寿社会課に1年配属になり、その後再び5年間米子保健所に行きました。それから医療政策課医療人材確保室に2年、続いて健康政策課で2年、その次に健康医療局長、翌年に新型コロナ感染症担当として理事監になり、その後統轄監という流れです。
私は倉吉に住んでいて、西部・東部が通勤圏で、トータルで38年のうち20年は遠距離通勤でした。今みたいに道路の交通事情やJRの通勤事情もよくなかった時期もあり、そうすると1日4時間ぐらいは通勤時間という時もありました。都会みたいですね(笑)
県職員になられたきっかけを教えてください。
保健師として鳥取県で働きたいという気持ちがありました。私は教育課程でも県外へは出ておらず、高校を卒業後、国立米子病院附属看護学校(現・米子医療センター附属看護学校)で3年、その後県立倉吉総合看護専門学校に進学し、1年間で保健師と助産師の国家資格を取るというハードな養成課程を経験しました。
保健師として、住民に身近なところで長いスパンで仕事をしたいという気持ちがありましたので、市町村保健師になりたいという気持ちが強かったんですが、市町村の採用がなかったため、県の採用試験のほうが早く、県立の学校だったので、合格したのだから県に行きなさい、という外圧もあり(笑)、県の保健師になりました。最初の頃は市町村の保健師になりたかったという気持ちは残っていました。
いつ頃から保健師という職業に興味を持たれたのですか?
興味を持ったのは看護学校の時ですね。看護学校に行くまでは保健師という仕事をあまりよく知りませんでした。祖母が看護師で、看護師として働く祖母の姿を見て、やはり資格を持って、ライフイベントが色々あっても働き続けることに良さを感じており、そのためには何か資格を持った方がいいと思っていました。
看護学校に進み、看護師の道も考える中で、病院で出会う患者さんは病気の治療のために来る人であって、例えばそこで病気と付き合っていくための退院指導を精一杯しても、また悪化して再入院される方もおられるわけです。そういう関わりの中で、地域の中で健康を守るということがしたいと思い、保健師になろうと思いました。また、看護師・助産師は夜勤があるため働き続けることが困難な時期があるかもしれないという思いもあり、私にとって「働き続けること」を考えたときに、正直なところ日勤の仕事がいいなとも思いました。
これまでの経歴で印象に残っている部署があれば教えてください。
児童福祉施設で働いたことがすごく印象深く残った経験でした。入所されている知的障がいの子どもたち(18歳まで)の健康・命を守るというお仕事です。皆成学園は生活の場であり、そこから倉吉養護学校(特別支援学校)に通学していきます。
そこでは初めての保健師1人職場で責任の重さがありました。生活や教育の場で関わる多くの職種の方とベクトルを合わせて入所児童の育ちや自立を支えるために、保健師としてそこを調整するというのが自分の役割だと途中で思ったんです。その発達年齢・障がいの程度に応じて、心身のケアも含め、どんなふうに支援していくのかということを関わる皆が理解する必要があると感じました。
様々な障がいに対する基本的な理解も当時は不足していました。ある児童の「問題行動」の欄に、「場面が変わったときにパニックを起こす」と資料に書かれていたのですが、それはその子の問題ではなく、障がいの特性であって、パニックにならないように専門性をもって支援するのが、周りの大人たちの役割ではないのかと。アスペルガー症候群やADHDなど障がいに対する理解を得るために関係者カンファレンスを開いたり、先生(医師)と直接話す場を設けて、その障がいはこういう特性があることを理解しましょうという取組みをしました。
また、健康管理の面においても主治医の先生から私が直接聞き取ったことや治療内容などを養護教諭にも伝えたり、学校との合同健康管理委員会を開いて先生たちと一緒に健康を守る環境を整えたりだとか、そういった仕事は、すごくやりがいがありましたし、施設に保健師がいる意味を自分自身が納得できました。
また、対人サービスがしたくて保健師になったので子どもたちとの関わりがすごく楽しかったです。今でも覚えてくれてて、街中で声を掛けてくれることもあります。何十年も会っていないのに私が定年だってことを知っていてくれたり(笑)。
ただ、県の保健師になった意味というものを本当に深く実感ができるようになったのは、本庁で働いた経験なんです。保健師の専門性をどう生かしていくかと考えた時に、地域の色んな健康課題やニーズを施策に反映させる、或いは必要な予算を獲得してとか、新しい制度を作っていくということは、地方機関では自分の意見がなかなか思うように伝わりにくいと思うことがあり、ジレンマを感じていました。こういったことができるのは、本庁ならではの醍醐味だと思いますし、非常に勉強になりました。
若い時から現場を経験されていらっしゃるのは、とてもいいなというふうに思いました。
今の鳥取県の人材育成の方針にもあると思うんですけど、戦略的なジョブローテーションの中の一つには、できるだけ多くの職員が地方機関と本庁勤務の両方を経験する、そんなことができるといいなと思いますよね。
私の場合、30代後半で初めての本庁勤務で、2年目に係長に昇任させてもらったらこれが本当に大変えらくて(笑)。異動の声が掛かった内示の時に「私には無理だ!」と思いました。現在はいろんな課に分かれている業務なんですが、すごくたくさんの業務を持っている係だったんですよ。とても大変でしたけどすごく凝縮された経験で、それはずっと県職員生活で活きました。
その時印象に残っているのが、不妊治療費の助成制度です。保険が適用されず多額な医療費がかかっていて、当事者の方が本当に経済的にも精神的に辛い思いで治療されていました。当時、国も助成制度を作ったんですが、1回50万円もかかる治療費に対して10万が上限で焼け石に水みたいな制度だったんですね。こんな背景もあり実態調査をしないとなかなか政策には反映できないと思って、県内の産婦人科に通院している方に対し実態調査をし、国の助成額に加えて、県の予算を使って助成額をプラスする制度を初めて実現できたんです。
それと、実態調査からも専門的な相談支援の場所が不足していると感じていて、県の不妊専門相談センターを開設することになり、専門人材が必要だということで、認定看護師の養成・配置を実現できたことが、最初に「施策」としての手応えがあったところでした。こうやって実態を把握したもの(ニーズ)を吸い上げて、財政を所管する部署と協議して、最後は当時の片山知事がうんと言ってくれて、その時もそんなに大きな額ではなかったと思うんですけど、全国に先駆けて助成額をプラスする制度を実現できたことは嬉しかったです。
県で働く保健師の役目とは何だと考えていらっしゃいますか。
今まで一貫して思っていたことは、本庁に「専門職がいる意味って何なんだろう」という問いです。その場所で専門性をどう生かすのかということがすごく大事だと思っています。
健康対策課で小児難病の医療費助成の申請書類を見ていた時に、辛い治療を受けていたのが見てとれて、このお子さんの親御さんってどれだけ辛いんだろう、と思いました。
申請された書類について、粛々と適正に事務を行うことはとても重要です。だけど、その中にある現実や背景に思いを馳せることが、より専門的な知識があれば、想像する精度はやはり違うのかなと。
その対象者の生活実態を捉える、そういうところはやはり専門職として、力を発揮しないといけないと思ったことがありました。常に、「この事業は県民にとって、何の役に立ってるんだろう」「これで支援は足りているのか」とかそういう視点を持って見てましたね。
保健師という専門職が配置されていると見られているとずっと意識していました。優秀な事務職を配置した方が良いんじゃないと思われたらいけんなと思ってました(笑)。逆に専門職として視野が狭まりがちなところを、事務職の方が客観的に見てくれるっていうのもとても大事ですね。そういうのはやっぱりチーム力というか、そんなのも感じました。保健師集団でやっていたら、進まないこともあると思います。
思い出に残っている職員さんがおられたら教えてください。
同じ専門職の先輩でこうなりたい姿というのはありましたし、上司でもこの人のもとで働くのは働きがいがあるなというようなことは、どの配属先でもあったなと思います。特に、保健師の仕事をちゃんと理解してくださって、保健師の応援団っていうような言葉で言ってくださる方もあったんですよ。本当に色んな方に支えていただいたと思っています。
コロナ禍で改めて保健師の重要性が認識されてきていると思いますが、長年勤められてきた中で、周囲を取り巻く環境の変化についてどう感じられましたか。
やっぱり未知のウイルスに対する恐怖というのは、繰り返されるんだなと感じました。今までもハンセン病・エイズなど、様々な感染症がありますけど、新たな感染症に対する防衛反応的なものは仕方ないと思いますが、感染症患者(や家族)に対する差別・人権意識について、改めて考えさせられることが多々ありました。
患者や関係者の方への反応とか、報道等でいろんな情報を見聞きすると、未知のウイルスは怖いけど、ウイルスよりも人が怖いと思ったんですよ。今までの人権教育は何だったんだろうってちょっと悲しくなって。正しく恐れることができない・誹謗中傷も起こるってことだと思うので、正しく行動をとってもらう・正しく理解してもらうために、感染者情報をマスコミに対して提供するんですけど、正しく伝わるのか・それを報道された当事者(患者・家族)にどういう影響を及ぼすかとか、どう受けとめられるのかっていうところを当初は特に考えていました。
最近はそうは言っても、「正しく恐れる」というところまではたどり着いてきたかもしれないですが、未だにそこはかなり配慮が必要かなと思うことがありますね。クラスターの発生を資料提供する時にも、報道された側(事業者)に対する影響はどうなのかなというところは常に考えています。
これからの出口戦略の中で、コロナが(インフルエンザのように)普通の病気として、治療を受けることができる体制というのが大事だと考えています。医師会の先生方にお願いに行ったときの先生方のご理解・ご協力の姿勢は、やはり2年前とは全然違います。それは皆さんと一緒になり、この2年間を繰り返し協力・理解を求め、少しずつステップを踏みながら、安心して診療していただけるように支援をしてきたことが背景にあると思います。
また、感染拡大防止のために、人と人との距離を保つ・接触を減らすことなどが新しい生活様式が必要になりました。このメッセージはリスクコミュニケーションとして必要ですが、発出する私にとってはとても悲しいものでした。でも、心の距離は逆に縮めることができる…繋がりを強くできると感じた2年あまりでした。私にとって、日々、多くの方の励ましが背中を押してくれました。全ての方に感謝の気持ちでいっぱいです。
県庁生活で大切にされてきたことがあれば教えてください。
「現場主義」ですかね。県民、或いは事業者さんのニーズをどう吸い上げていくのか・誰のために何を目指している事業なのか・どういう姿を目指してるのかっていうところが大切だと思うんです。
私が最近出会った言葉(講演の記事)で「公務員の仕事は住民の願いや希望を翻訳することで、住民の願いや希望を理解する感性を磨くことが大事」というのがありました。本当にそうだなと思って、実は私自身学生の頃からとにかく感性を磨くことを大事!と助言を受けてきました。同じことに出会ってもそれを受けとめる力で随分変わってくると思うんですよね。それがやっぱり現場のニーズをどう吸い上げたらいいんだろうってことに繋がるのかなと。
本庁にいれば、事業者や直接住民の方と関わりにくい分、それらの人達により近いかかわり方をしている地方機関・実施主体の市町村や医療関係者がどう捉えているかというところをキャッチすることがやっぱり大事かなと思います。
その他、県職員生活を振り返って思われることがあればお願いします。
コロナの担当になって大変ですねって多くの方に声掛けてもらうことがあったんですけど、生きていくことに大変な人に比べれば比べ物にならない、病気療養中の方や生活困窮されてる方を思えば、仕事を一生懸命させてもらってるっていうのはありがたいこと、そんなふうに思っていました。今しかできないことをやって、自分の人間力・幅を広げて、引き出しをたくさん持つことをしていくことが大事です。無駄なことはないと思うので、「いつかやりたい」ではなくて、今やれることはやったほうがいいと思います。
あとは、こうなりたい自分があるとしたら、それに向かう「スモールステップ」というのがすごく大事だと思っています。ありたい姿に向かって、何をしていったらその姿になるのか考えたときに、ステップって重要だと思うんですよね。これだったらできそうだって思うことじゃないと、やろうという気持ちにならないので。そして達成感だったり自信がついたりとか、じゃ次頑張ろうっていうふうになると思うので、成功体験を積めるっていうのはとても大事だと思っていて、一歩一歩進むことは、仕事でもプライベートでも大事かなって思ってます。