これまでのキャリアを教えてください。
最初は港湾課、その次に鳥取空港建設事務所で、当時は鳥取空港の滑走路を延伸する工事中でした。その後が郡家土木事務所、次に国土交通省の道路局に研修派遣、戻ってきてからは道路課、鳥取土木事務所、漁港課、根雨土木事務所、都市計画課、米子土木事務所、道路建設課、境港管理組合、米子県土整備局、空港港湾課、境港管理組合に一度戻り、今の県土整備部と歩んできました。
東部から西部まで、中部以外は全て経験してきました。港湾と道路が2つメインですが、その中で共通するのは都市計画ですね。
もともとご専門が都市計画だったのですか。
いえ、大学時代の専門は橋梁(きょうりょう)です。大学で学ぶのは橋梁の部分的なところを研究するので、仕事には直接は役に立たなかったです。(笑)
仕事で経験を積まれるなかで、都市計画に関わる機会が多かったということでしょうか。
都市計画課に3年おり、全県的な都市計画マスタープランを初めて策定する際に携わりました。他にも、鳥取西道路の都市計画にも携わりました。
県民生活にも影響の多いインフラの部分ですね。国土交通省にも行かれていたのですか。
はい、30歳頃に行っていましたが、それはもう激務でした。(笑)
当時はまだ週休2日にもなっていない頃でしたし、終電で帰るとかは良くありました。
実際に国土交通省で働いてみて、県のやり方とは全く違うということがよく分かりました。あの頃の経験が活きているかと言われれば、恐らく活きていると思います。
印象的な業務や部署は何でしょうか。
印象に残っているのは鳥取空港建設事務所での3年間です。昭和60年から62年までの3年間在籍していましたが、当時は国体に合わせて鳥取空港の滑走路を海の方へ1800mから2000mに延伸する工事だったのですが、漁業補償がつかず工事が進められなかったので、仕事が全く計画どおりに進みませんでした。
あとは2000年に日野(根雨土木事務所)へ行ったところ、その年の10月6日に鳥取県西部地震に見舞われました。国道担当係長を日野でしていたその3年間は激務でしたね。13時30分頃だったと思いますが、震源から5kmで、職場のスチール机が動いていくほどの衝撃でした。地震が起きてからの2年半はその現場にいました。
地震の後はその直後から道路のパトロールに出て、翌日から復旧にあたりました。大きな岩がのり面から道に落ちており、山から落ちた様子が見てとれました。川に落ちている岩もあり、川にある巨大な石の起源を不思議に思っていましたが、その時に謎が解けました。地震のときも車は通っているでしょうから、目の前を石が通り過ぎても偶然当たらなかったという感じだと思います。
地震後も1か月ほど毎日震度4程度の地震があったと思います。
住民の方から直接道路を直してくれ、という要望はありませんでしたが、担当していた国道は幹線なので市町村からはそういった要望がありました。
土木をやっている人間にとって、このような経験は非常に勉強になります。完成形を修理することはよくあっても、物が壊れている現場を見ることでどんな壊れ方をしたのかを想像することは貴重ですからね。
話は変わりますが、なぜ県職員になられたのですか。
父親が建設業に携わっており県職員の仕事について小さいときから聞いていたことと、学生時代県外に出ていたので鳥取に帰りたいという気持ちや「地域のフレームを作りたい」という気持ちがあったので、県職員になることを選びました。国とは違って県はなんでも出来る、都市計画のような全体的な計画から実際のインフラ整備まで地域の基盤・フレームを作れると思って入りました。そのように思っていたことは今でも覚えています。
北は境港から南は日野まで、様々な場所を経験されていますが、その中で当初考えていた「地域のフレームづくり」とのギャップは感じられましたか。
入庁したら目の前の仕事を一生懸命やるしかありませんでしたね。(笑)
ただ、色々なことをやりたいなとは思っていました。今みたいに異動希望のシステムもなかったですし、あまり希望も言ってこなかったです。
色々やってきたなかでも都市計画は一番役に立ちました。それ以外にも災害、道路と、色々とやらせてもらいました。
お話をお伺いする中で、物が出来ていくことはやりがいがあるのかなと思いました。
土木の監督員として実際にモノを作っていくのは30代半ばくらいですが、自分が監督員として関わったものや自分の意図が反映されたものが作られていくことは責任も伴うので、今でも時々見に行きますね。そういうところが面白いのではないでしょうか。
これまで担当されたものの中で「これは見ておけ!」というものはありますか。
担当した構造物で最も大きいものは鳥取土木事務所にいた際に作った鳥取市正蓮寺の近くの高架橋です。鳥取土木事務所に4年いた際に担当しました。高欄の色とかは自分のセンスで決めました。(笑)
県職員を続けていく上で大切にしていたことは何でしょうか。
仕事が来たら断らないことです。もちろん断らないといけないこともありますが、部局間でどこが担当するか割り振りが難しいような案件は極力引き受けました。
個人的には自分の経験になるということもありますし、割り振りに労力を費やすのは無駄なことですから。どの部局が受け持つのが効率的か、利用者の視点から見れば自然に分かってくることだと思います。本質的に考えることが重要だと思います。
地方機関も長いですが、本庁との違いなど感じられたことはありますか。
仕事の質は違いますが、両方やるべきだと思います。現場がわからなければ本庁の仕事も出来ないし、逆に本庁がわからなければ現場の仕事も進まないので、両方を知ったうえで仕事をやっていくべきです。
※所属名は当時の名称のまま記載しています。