防災・危機管理情報


  

日々雑感

鳥取県教育委員会 委員 岩田 慎介 岩田委員の写真



1.はじめに

 昨年の3月に続き、この度2度目のリレーコラムの執筆を依頼されました。改めて1年という時間の経過が早く感じられます。
 前回に引き続き、日々感じていることを中心にいくつか披露させていただきます。
拙文となること、何卒ご容赦願いたいと思います。

2.家庭教育

  私の知人の保育園の保育士と久しぶりに出会い話をしたところ、しばらく体調を崩していたと聞かされました。原因は、保護者から投げ掛けられたある言葉にあったと言うのです。
 ある日、登園してきた子どもさんが朝から欠伸(あくび)ばかりしていたので理由を問い質すと、連日深夜11時や12時までテレビを見ているからだと言うのだそうです。夜更かしの反動で朝食を抜いているそうで、午前中の活動にも熱が入らないことも少なくなかったようです。後日、懇談の席で、保育士の彼女はその子の母親に対して早く寝かしつけること・朝食を摂ることを勧めました。すると、その母親は激昂して『先生は結婚もしていないし、子供も産んでいないじゃないですか!』と言い放ったそうです。
 当事者にとっては結構キツイ言葉だったと思います。それが元で体調を崩すことになったのですから。では、何故このように保育園生活や集団生活に影響を及ぼす園児がいるのでしょうか。それは、とりもなおさず保護者自身が「大人」になり切れていないからなのではないでしょうか。保育園での「保護者」たる彼女と、家庭での「保育士」たる保護者の持ち合わす常識度に深刻な乖離があるからだと私は思います。
 仮に、保育園に50人の園児がいれば、保護者の考え方は50通りはあり得ます。従って、保育士としての彼女は1/1の存在。自ずと限界はありますよね。保護者はその限界を理解しなければならないと思います。少し耳に痛いことを言われたとしても、保護者はその発言の内容を真剣に受け止め、真意を探る努力を怠るべきではないと思います。
 個々の家庭環境や保護者の勤務形態に配慮はできても、教育現場そのものが家庭の理由や個人の思想で右往左往することがあってはならないと私は思います。自省することなく誰かの所為にする、そんな「言った者勝ちの風潮」を教育の現場に持ち込んではならないと思います。家庭と学校の連携、保護者と先生の信頼関係、これこそが子ども達の健全な成長をもたらすのです。

3.習慣を言葉で説明するむずかしさ

   前項で朝食を抜く子どもさんの話に少し触れましたので、この項では食育について触れてみたいと思います。
 以前、学校給食で「いただきます」と言って両手を合わせる姿が特定の宗教行為に結びつかないか、という懸念を指摘する声が挙がっているとのニュースを耳にしたことがあります。曰く、憲法が保障する「信教の自由」を阻害している、とのこと。
 この件に対して、ある放送作家が、自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組の中で以下のような持論を展開しました。

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 「いただきます」という言葉は、宗教に関係していません。自然の世界と人間のお付き合いの問題です。『お金を払っているから「いただきます」と言わせないで。』というのは最近の話です。命でなく、お金に手を合わせちゃう。会社を売り買いするIT企業や投資ファンドにも共通点があると思います。「いただきます」とは「あなたの命を私の命にさせていただきます」の意。
 でも、僕は普段、家では言ったり言わなかったり。ましてや、他人には強制しません。絶対言わなきゃいけないとは思いません。きちんと残さないで食べれば、「いただきます」と言って残すよりいいと思うんです。貧しい国には飢えて死んでいる人がいる。日本で残して捨てているご飯があれば、助かる子供たちがいっぱいいるわけでしょう。食べ物を大事にできているかどうかが問題で、言わないのが「ひどい」と反対することではないと思います。普通に会って「こんにちは」、別れるときに「さようなら」、何かの時に「ありがとうございます」「すみません」「ごめんなさい」そんな普通の会話の中に「いただきます」は当然入ってくると思うんです。特別に『みんなで言おう。』というのはおかしい気がします。言っても言わなくても、大声でも小声でつぶやくだけでも、おもうだけでも、いいことにしましょう。
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前段は大いにうなずけるのですが、後段はちょっと…。
食べ物を「残す」か「残さない」かは結果論であって、物事の出発点を教えることが大人の役目だと思います。幼少期には「(いただきますを)言って残さず食べる」ことを教える。それだけで良いのです。
 また、「最貧国では1日に○○人の子どもが死んでいる」とのフレーズを持ち出して、ご飯を食べさすことから、本当の感謝の気持ちが芽生えるのでしょうか。「いただきます」や「ごちそうさま」は最低限の礼儀だと教えた上で『世界にはご飯がたべられずに死んでいくお友達がたくさんいるんだよ。だから、食べ物には感謝して全部食べないとダメなんだよ』と教えていくことが大人の務め・家庭の務めだと思います。万が一、残してしまった場合には、『残してごめんなさい。』で充分ではないでしょうか。
 また、皆で「いただきます」「ごちそうさま」を言うことに関しては、集団生活の中で協調性を身につけていかなければならない時期ですから当然と私は思います。個人の権利を主張する前に、集団やコミュニティーに対する義務を履行する必要があるからです。
 習慣を言葉で説明することはとても難しいのですが、私たちは地域社会の成員のひとりにしか過ぎないことを認識することはさほど難しくないように思えます。

4.最後に

 私たちは日々矛盾を感じながら生きています。それでもその矛盾と付き合っていかなければならない以上、子を持つ親として、子どもたちには身の丈に合った等身大の実践を以って教えていくほうがいくらか有益なのではないでしょうか。
 身の回りの現実を見つめ直し、反省して、そこから自分には何が出来るのか、家庭では何が出来るのかを考えて修正し、実践に移していくことが人として或いは保護者として、我々に求められていることだと思います。

 

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