教育委員長職務代行者 松本 美惠子
最近読んだ本の著者のエピソードで、小学3年生の夏休みも終わりころ、ほったらかしにしていた宿題を必死にしていたときに、親戚の人から海に遊びに行かないかと誘われ、行きたくてたまらなかったのに母親から禁止され、宿題を終わらせていなかったことを後悔し、海に行けずに宿題をしていることがとてもつらかったという話が披露されていました。
話はそこで終わらず、著者は、翌年、昨年の失敗を繰り返さないと決意し、夏休みが始まったその日から宿題に着手し、2週間でやり遂げてしまい、残りは遊んで過ごしたそうです。
著者の人生が変わった瞬間であったと書かれています。以後毎年の宿題は前倒しで終わらせるようにしたそうです。
そういえば、先月見学したある小学校で行われたPTAの有志の参加者の研修で、いじめをしない子どもたちに育てるにはどう接したらよいのだろうかという
テーマでしたが、子がテレビを見ていていつまでも明日の宿題に取り掛からないときに「つい怒ってしまう、どう対応したらよいのだろうか」という親からみた苛立ちへの対処法をグループで共感をもって話し合っていました。多くの家庭で親と子の同じようなバトルが繰り広げられていることだろうと想像できました。
宿題という代物はやらなければならないとわかっているけれど、なかなか取りかかれないという中で、「やりなさい。」と「なぜあなたはとりかからないの?」間の葛藤を惹起し、闘いとなるだけでなく、たまにさっさと済ませたときの格別のそう快感も味わえたり等、ちょっぴりの反省と共に宿題をさっさと済ませることの大切さという教訓を得たりもします。
宿題の成果は、本来の学習を達成するというだけでなく、人間力、胆力を養う道具みたいなものというようにも思えてしまいます。
たかが宿題、されど宿題というところでしょうか。
小学校3年生で人生の生き方を知った前述の著者に比べ、私の人生は、この原稿もそうなのですが、年賀状もしかりという具合で、60歳を過ぎても締切りぎりぎりになってしまって、日々反省と焦り、後悔の波を渡って、今まで何とか乗り切っています。