教育委員長 中島 諒人
詩人池井昌樹の『手から、手へ』という作品は、一冊の薄い詩集になっていて、鳥取が世界に誇る写真家植田正治による家族の写真が多く添えられています。詩は、子どもである「おまえたち」に父と母が語る形になっていて、
やさしいちちと
やさしいははとのあいだにうまれた
おまえたちは
やさしい子だから
のなめらかな四行で始まり、
おまえたちは
不幸な生をあゆむのだろう
と衝撃的に結ばれる一ページから始まります。
やさしい人は、周囲からも愛を受けて幸福に生きるというのが、我々の予想する展開です。でも少し落ち着いて考えると、「不幸な生をあゆむ」という方が、実感というかリアリティがあります。やさしさという言葉は、身近にあふれているけれど、本当にやさしくあり続けるのは、とても困難なことだと、私たちは知っています。やさしさに恵まれないで生きている人が、攻撃の硬い殻で自分を守ること、それが彼(彼女)にとって生き続けるために深く切実な行為で、やさしい人は、時にその暴力を黙って受けるしかないことを、私たちは知っていま
す。
敗戦70年の節目の日を迎えるにあたり考えます。
やさしくさえあったならば、きっとあの戦争も避けられたのではないか。
悲惨な最期を遂げた多くの人の命が、失われなくても済んだのではないか。
あまりに素朴な物言いと思われるかもしれません。やさしさは時に愚かで無策に見えます。やさしくあることは、この世界の中ではペイしないことのように見えます。狡猾で攻撃的であることの方が、上手な生き方であるように感じられます。昨今のグローバル化、それに伴う競争の激化はそういう感覚を強めています。
いじめで苦しむ子どもの話を見聞きするたびに思います。そのクラスにも、やさしい子どもはいただろう、いじめる子どもにもやさしさはあっただろう。でも、そのやさしさが心や教室のはじに追いやられて、ないもののようになってしまうことが、しばしば起こるのです。
詩の後半、詩人は「やさしさ」について、次のように言います。
やさしさは
このちちよりも
このははよりもとおくから
受け継がれてきた
ちまみれなばとんなのだから
てわたすときがくるまでは
けっしててばなしてはならぬ
「ちまみれのばとん」。ここでまた、我々は少し違和感を感じます。「やさしさ」というのは、一人一人の心の中のもので、「受け継」ぐなんて変じゃないか。しかも「ちまみれ」ってどういうことだ?詩人はどうも「やさしさ」ということについて、歴史的視点、社会的視点をもっているようです。「人権」とか「自由」などを含みながら、もっと大きくて柔らかで強く根源的なものを示しているように思えます。「てわたすとき」というのは、死ぬ時という意味でしょうか。
やさしくあること。どんなことがあってもやさしくあり続けること。やさしさこそが、私たちを人間にするのだということ。愚かにもしょっちゅう忘れてしまうのですが、8月15日を前にして、胸に深く刻みたいと思います。そして、今のあまりに忙しい学びの場でも、それは最も大事にされるべきことの一つだと確信しています。