教育委員長 中島 諒人
ものづくり企業の品質の高さは日本の誇りだ。それを支えるのは、現場の人たちの職人的なこだわりであり、こだわりとは、品質についての厳正な自己管理だと思っていた。
グローバル化による競争の激化、それによる製造現場への圧力が原因だろうか。それもあるだろうが、それのみでもないだろう。品質こそ企業の力であり、それを担保し、対外的にも示していくために、管理のルールや品質基準が作られたはずだ。それらは、現場を縛るものではなく、現場を生かすためのものだったのではないか。単純にないがしろにできるのではないはずだ。それなのにである。
こんなことを書いたのは、一連の企業での出来事が、日本の政治的風土というと大げさかもしれないが、我々の中に古くからある、集団的な行動や思考の様式の結果のようにも思えたからで、そこに学校の校則と子どもたちの関わりと同じ姿を見たように思うからだ。
校則は、社会生活の中で初めて子どもたちがふれるルールだ。初めてというのは、正確な言い方ではないかもしれないが、中学の生徒手帳などで髪型や登校時の服装などのルールが、身近なものとして厳然と出現する。校則は誰が決めたかわからない。教員が管理し、子どもたちは従うことだけ求められる。それらは時に理不尽にすら見える。が、黙って従うことも社会に出るための一つの通過儀礼とも考えられているようだ。こっそりすり抜けることは、世代を越えてスリリングな体験とされ、時に武勇伝とさえなる。そういう学校文化の一側面の良し悪しについて、ここで深く議論するつもりはない。だが、学校で自分たちのコミュニティの自治について、もう少し考える場があってもいいのではないかと思う。
私たちの社会のルールは、基本的に私たち自身の合意によって作られている。選挙や議会という制度により形成された総意という形によるが、ともかく合意の上にルールができる。だから作ったルールは守るべきだし、もし不具合が生まれたら修正もできる。大事なことはルールへの能動的関わりで、それによって社会は発展していく。校則についても同じように、生徒の自律性や能動性に委ねられないだろうか。大企業の不正のことが、他人事ではなく気になったのは、バレなければいいというルールへの極めて消極的な関与の姿勢を感じたからで、その根に、校則に渋々従い、文句ばかりを言いごまかすことばかりを考える、昔から変わらない我々の姿を見るような気がしたのだ。
2018年は、明治元年から150年の年。実に多くの達成を成し遂げた150年なのは間違いない。が、この先に進むために、そして多くの困難を乗り越えるために、さまざまなコミュニティで自治と自律が必要だ。学校はその学びのための最良の場だと思う。