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「長瀬村利七(ながせむらりしち)漂流談」(若原委員)

若原委員  鳥取県教育委員 若原道昭

 幕末期に日本近海で遭難・漂流し外国船に救助されて、当時の鎖国下の日本人には見聞する機会のなかった諸外国の状況に図らずも接し、そこで得た経験や知識、語学力を持ち帰り、日本の近代化に貢献した人々があった。そうした数少ない人の中でも土佐出身の漁師「ジョン万次郎」(中濱萬次郎 1827-1898)や播州出身の船乗り「ジョセフ彦太郎」(濱田彦蔵 1837-1897)がよく知られている。
 万次郎の場合はアメリカで学校教育を受け、帰国後は薩摩藩や土佐藩や幕府の教育機関の教師、日米修好通商条約の遣米使節団員、明治政府の開成学校教授などを歴任した。
 彦太郎もアメリカで学校教育を受け、初めてアメリカの市民権を得た日本人、リンカーン大統領に会った唯一の日本人、と言われている。また領事館通訳や貿易商としても活躍し、日本で最初の新聞『新聞誌』(のちに『海外新聞』に改名)を発刊している。
 その彦太郎と同じ船に乗り組んでいた漂流民17人の中に、一人の鳥取藩出身者がいたことはあまり知られていないようだ。現在の東伯郡湯梨浜町はわい長瀬出身の船乗り「利七」(1829-1869)がその人であり、彼の生涯については1979(昭和54)年に発行された松岡貞信(まつおかさだのぶ)氏の著書『長瀬村利七(ながせむらりしち)漂流談』がある。
 この本は利七が帰国後に記憶をもとに語った内容を聞き書きしたものが元になっており、いくらか精確さに欠ける点はあるかもしれないが、それによると利七や彦太郎の乗った「榮力丸(えいりきまる)」が紀伊半島沖で暴風にあって遭難したのは1850(嘉永3)年10月、利七21才の時であった。53日間の漂流の末、アメリカ船オークランド号に救助され、帰国までのほぼ4年間をサンフランシスコ、ハワイ、香港、マニラ、上海等で過ごし、日本へ送還されたのは1854(安政元)年7月であった(彦太郎ら3人は途中で香港から再びアメリカに戻った)。故郷に帰った後は鳥取藩の藩校「尚徳館」の小使いとして名字帯刀(みょうじたいとう)を許され扶持(ふち)取りとして待遇された。そして機会があれば乞われるままに海外事情を物語ったという。
 利七が1869(明治2)年に故郷で家族なく天涯孤独の生涯を終えてから今年はちょうど150回忌にあたる。湯梨浜町新川の海岸の松林近くには1980年に彼の顕彰碑が建立されているが、今は訪れる人は稀である。
 いわば成功者である万次郎や彦太郎にくらべると、利七は帰国後の活躍の舞台も期間もずっと限られた地味なものである。その差異をもたらした要因としては、彼ら自身の資質の違いも勿論あったであろうが、遭難時の年齢の違い(万次郎と彦太郎は14才であった)、滞米期間の長さ、そして何よりもアメリカでの学校教育の機会の有無(遭難時には3人とも殆ど読み書きができなかったのである)などが大きいだろう。
 また彼らは自分の耳に聞こえた英語をそのまま発音して覚えていったようで、利七らが残している英単語の発音例は、私たちが学校で学んだものとは随分と異なっているものがある。2020年から日本の小学校に英語授業が導入されるが、このことも興味深く思われる。

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