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展示・イベント等

企画展「西伯耆の中世城館」の御案内

 先日、鳥取市鹿野町にある狗尸那城の現地説明会を開催しました。一旦中止していた7月の現地説明会にお申し込みいただいていた方に限って御案内したものですが、多くの方に御参加いただき、城跡に対する関心の高さを改めて実感した次第です。

 さて、秋の令和2年10月から12月までの3月、鳥取県埋蔵文化財センターは中世城館特集です。まいぶん講座、企画展示でそれぞれ中世城館を扱います。

 令和2年10月の企画展示では、「西伯耆の中世城館」を行います。西伯耆は、国人領主に加え、出雲の尼子氏や安芸の毛利氏が勢力を伸張させた地域です。両者の争いの中で文献の中に出てくる城など、西伯耆の拠点となっていた城跡を紹介します。

 今回は、尾高城(米子市)、石井要害(同)、手間要害(南部町)、江美城(江府町)から発掘調査によって出土した陶磁器や土器、石臼などの資料と、縄張り図などを展示する予定です。

 

企画展示「西伯耆の中世城館」

会期:令和2年10月3日(土)~10月30日(金)

開館時間:平日、午前9時~午後5時

10月3日(土)、17日(土)は、午後1時~午後5時の間特別開館

 

 今後は、11月に「東伯耆の中世城館」、12月に「因幡の中世城館」を予定しております。どうぞお楽しみに。


埋文センターの「めいひん」紹介3 縄文時代の石柱

 埋蔵文化財センターで開催中の企画展「埋文センターの『めいひん』」の展示資料の紹介第3弾です。

 令和2年8月15日(土)から開催している本企画展も、会期は残すところあと1週間となりました。

 最初に御紹介した坂長第6遺跡の金床石は、重さ約145kgでしたが、今回紹介する殿河内上ノ段大ブケ遺跡出土の石柱も、約85kgと負けてはいません。

 この石柱は縄文時代後期のもので、写真下のように穴に立ててありました。ここは竪穴建物が埋まった場所で、その上面には石が集められていました。

 砲弾型をしたこの石柱の表面は非常に滑らかで、丁寧に磨いたようです。反対側は途中で折れたようになっていますが、その面もかなり滑らかですので、後世に折れたものなどではなく、埋まる直前にはこうした形だったことがわかります。

 近くに石が集められていたこと、丁寧に加工されていることなどから、何らかの祭祀に使われたものと考えられています。想像をたくましくすれば、平らになった上面に供物などをおいた祭壇などとも考えられますが、さて、実際はどうだったのでしょうか。

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石柱

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石柱の出土状況

[令和2年9月掲載]


埋文センターの「めいひん」紹介2 これも?めいひん

 埋蔵文化財センターで開催中の企画展「埋文センターの『めいひん』」の展示資料の紹介第2弾です。

写真の資料は、鳥取市松原古墳群の調査で出土した、高さ3cmちょっとの磁器製品です。側面に合わせ目があるので、型で作られたと推測できます。

 顔が表現されているので、人物であることは分かります。右手をあげており、額の前にかざしているのでしょうか。頭にはヘルメットのようなかぶり物、服は上下がつながっているようです。背後にはリュックサックのような袋を背負い、その上に「クリコ」という文字が読み取れます。

 さて、皆さんはこれが何か分かりますか?

 

 実はこれ、「グリコ」のおまけなのです。頭のかぶり物は「飛行帽」、服は上下つなぎの「飛行服」、袋は「背嚢(はいのう)」と考えられ、パイロットを表現したのでしょう。こうした格好から想像されるとおり、昭和10年~15年のものです。お菓子のおまけとして、子どもが手に入れたたものなのでしょうが、山の中で見つかったということは、遊んでいるうちに落としてしまったのかもしれません。

 実は、こうした戦前・戦中の資料は、文献が残っていないことも多いのです。そうした時に、大地に残された「モノ」を研究する考古学が力を発揮します。この資料自体は「迷品」ともいうべきものなのですが、出土した場所の来歴や利用状況を考える上では、無視もできない資料なのです。

グリコのおまけ

[令和2年8月掲載]


埋文センターの「めいひん」紹介1 これぞ!めいひん

 埋蔵文化財センターで開催中の企画展「埋文センターの『めいひん』」。実は、現在鳥取市歴史博物館で開催中の「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」との連携展示で、スタンプラリーも実施していますので、ぜひ両方に足をお運びください。

 現在、ホームページ上で、「名品」展の展示資料を紹介していますが、せっかくなので、「めいひん」展からも展示資料をいくつか紹介したいと思います。

 岩美町小畑(こばたけ)古墳群は、平成12・13年に発掘調査を行った古墳時代終わり頃(7世紀)の古墳群です。5基の古墳を調査し、巨大な石を組み合わせた横穴式石室内から、3基の古墳で家形石棺が見つかっています(2基は当センターで展示中)。古墳はいずれも盗掘を受けていましたが、石室内から多くの副葬品が見つかっており、中でも馬具(ばぐ:馬に乗るときにつかう道具類)は、質・数量ともに県内有数の資料です。これらも「名品」なのですが、今回紹介するのは馬具ではなく須恵器です。

 須恵器に限らず、遺物は土に埋まっている間に様々な理由で割れてしまっている場合がほとんどなのですが、この壺は完全な形で見つかりました。しかも、肩の部分に緑色の自然釉が厚くかかっており、一部は下に流れています。窯の中で降り積もった灰が溶けた自然釉ですが、その流れ方、掛かり方は偶然とは思えないほど見事で、あまり考古資料には使わないのですが、「美」を感じさせる逸品です。

 

小畑古墳群出土馬具と須恵器

[令和2年8月22日掲載]


企画展「埋文センターの『めいひん』」開催中!

 現在、鳥取市歴史博物館(やまびこ館)では、「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」を好評開催中です(令和2年9月22日まで)。40年近い歴史を重ねる当センターの膨大な収蔵資料の中から、選りすぐりの「名品」を展示しています。
 本企画展「埋文センターの『めいひん』」では、様々な理由で同展示に出展できなかったその他の「名品」や、こんなものも、という「迷品」を展示しています。
 その中でも、坂長第6遺跡(伯耆町)出土の金床石(かなとこいし)は、重量約145kg!側面や上面に鉄がこびりついており、郡衙(ぐんが:郡役所)付属工房での大量の鉄製品作成を彷彿とさせます。一緒に出土した鉄滓(てっさい:製鉄の際の不純物)やふいご羽口(はぐち:炉への送風口に付ける筒状製品)は「名品」展に展示していますが、金床石は、あまりに重いためこれまで展示されていませんでした。
 もちろん、これ以外に「名品」展展示資料にひけを取らない、数々の「めいひん」も展示しています。展示期間は令和2年9月25日(金)までです。

〔展示構成〕
1 動かせない!
2 大きすぎる!重すぎる!
3-1 こんなものもあった!
3-2 こんなものも?

展示の様子

もう一つの「めいひん」展示の様子

 

巨大な金床石

巨大な金床石(左)


企画展「古代の因幡」展示品紹介5

 今回は、古代の因幡に暮らす人々の生活にまつわる出土品を紹介します。

 写真は、青谷横木遺跡(鳥取市)から出土した下駄で、大人用(写真奥)と子ども用(写真手前)のものです。大人用の下駄は、足を乗せる台と底の歯が一木でつくられた連歯下駄(れんじげた)と呼ばれるものです。不思議なことに、鼻緒の前壺(前の穴)が二つ開いています。これは、古代人も内股やがに股などの歩き方により歯が片減りしてしまったために、左(右)で使用していたものを右(左)に履き替えて使っていたのではないかと考えられます。最終的に歯は均等にすり減っているのが分かります

 子ども用の下駄は、全長14.8cmで、現代の足のサイズからすると、未就学児程度の子どもが履いていた可能性があります。底に歯は無く、幼い子どもが足をくじかないようにしていたのかもしれません。


下駄(表面)

下駄(裏面)

[令和2年6月掲載]


企画展「古代の因幡」展示品紹介4

 今回は海上交通に関わる展示品をご紹介します。

 写真1は青谷横木遺跡(鳥取市)から出土した木製祭祀具の舟形です。当時の船の形や構造を反映しているとみられ、大小さまざまな舟形が出土しています。多くは立体的な姿ですが、写真2のように船を横から見た姿を平面的にかたどったものもみられます。

 写真3・4は良田平田遺跡(鳥取市)から出土した奈良時代から平安時代の墨書土器です。いずれも須恵器杯の底部で、写真1には『舩(ふね)』、写真2は『馬津(うまつ)』と記されています。良田平田遺跡は湖山池南岸の狭い谷筋に位置しており、墨書土器は湖山池のほとりに公的な港である『津』が置かれていた可能性を示しています(写真5)。とくに写真4の『馬津』は、船で輸送された物資を馬によって運送するための施設が置かれた可能性を示し、遺跡の南方を通過するとみられる古代山陰道が津と密接につながっていたのかもしれません。

 険しい地形が連続する因幡地方では、古代山陰道に代表される陸上交通とともに、日本海を介した海上交通も重要な役割を果たしていたと考えられます。

写真1 青谷横木遺跡出土舟形

写真2 船を横から見た姿をあらわした平面的な舟形

写真3

写真4

写真5 良田平田遺跡(奥に見えるのが湖山池)

[令和2年6月掲載]


企画展「古代の因幡」展示品紹介3

 筆と紙、墨、硯は文房四宝(ぶんぼうしほう)と呼ばれ、行政文書をつくる古代の役人にとって必需品でした。有機質である筆や紙(代用品である木簡を含めて)、墨は遺跡から出土することは稀で、もっともよく出土するのが硯です。古代の硯は石ではなく、やきもの(須恵器)でつくられたものが大半であることから、陶硯(とうけん)と呼ばれました。

 写真左側の資料は、円面硯(えんめんけん)と呼ばれる硯で、上面が墨をする硯面(陸)で、その外周には墨をためる溝(海)が巡っています。透かしのある台がつく立派なものです。

 それに対して、写真右側は転用硯とよばれる須恵器の杯を利用した硯です。杯をひっくり返し、底(高台の内側)を硯面として使っています。黒っぽく見えるのが、墨が付着している部分です。下級役人は円面硯のように硯専用につくられたものではなく、転用硯をもっぱら使用していたと考えられます。転用硯には杯皿の他にも、甕の破片や瓦などが利用されました。

良田平田遺跡で出土した陶硯

[令和2年6月掲載]


企画展「古代の因幡」展示品紹介2

 都と因幡をつないだハイウェイ『古代山陰道』。当時の乗り物といえば馬でした。古代の馬(日本の在来馬)は、発掘調査で出土した骨などから体高が120130cm程であったと考えられ、現代のサラブレッドのような馬ではなく、寸胴な馬であったとみられています。

 鳥取西道路建設に伴う発掘調査では、馬形と呼ばれる木製祭祀具(お祓い道具)がたくさん出土しており、当時の馬をイメージすることができます(馬を横から見た姿をかたどったもので、基本的に脚はありません)。

 写真1は大桷遺跡(鳥取市)から出土した馬形です。口や耳、しっぽに加え、背中には鞍がかたどられています。前傾姿勢やしっぽがなびく姿から、古代山陰道を疾走する駿馬を現したのかもしれません。

写真1 大桷遺跡出土馬形

 

 写真2は、青谷横木遺跡(鳥取市)から出土した馬形です。青谷横木遺跡では1,700点を超える馬形が出土していますが、写真上は最大級、写真下は最小級の馬形です。写真上の最大級の馬形は鞍を持たない馬形で、長さ25cmで、厚さ2cm(通常の馬形の3~4倍の厚さ)もあります。

写真2 青谷横木遺跡出土馬形

 

 写真3も青谷横木遺跡から出土した馬形ですが、墨書でかわいらしい目が描かれています。また、目の下側には波状の線が描かれており、手綱(たづな)である可能性があります。

写真3 目や手綱(たづな)が描かれた、青谷横木遺跡出土馬形

[令和2年6月掲載]


企画展「古代の因幡」をはじめました!

 令和2年6月1日(月)から企画展「古代の因幡-古代山陰道がつなぐ因幡の古代社会-」をはじめました。本企画展では、重要な発見が相次ぐ古代山陰道の最新の調査成果とともに、古代山陰道がつなぐ因幡国府などの遺跡から見えてきた、因幡の古代社会についてパネルや出土品で紹介しています。

 古代山陰道の発掘調査成果をまとめたパンフレット「因幡の古代山陰道」も頒布していますので、展示とともに是非ご覧ください。

 なお、企画展に関連したまいぶん講座「古代の因幡~官衙・古代山陰道~」も6月20日(土)に開催しますので、ぜひ、ご参加ください。

開催期間 令和2年6月1日(月)~7月10日(金)

     ※期間中の6月6日(土)、20日(土)、7月4日(土)午後1時から5時までは特別開館します。

関連講座 第1回鳥取まいぶん講座「古代の因幡~官衙・古代山陰道~」

     日時 6月20日(土)午後1時30分から午後2時30分まで

     ※なるべく事前申し込みでお願いします。

企画展入り口

企画展示のようす1

企画展のようす2

イベント等の申込

令和6年度鳥取まいぶん講座申込(4月18日(木)~募集開始)


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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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