出前講演を実施しています。

私部(きさいち)城現地をご案内しました。

 令和2年11月に鳥取県立博物館が主催する「第5回 古戦場・山城・荘園をあるく」の中で、コースの一つ、私部(きさいち)城をご案内しました。

 私部城は、JR東郡家駅から東へ5kmの市場集落の裏にそびえる城山(標高276m)に築かれた山城です。この城は室町時代に奉公衆(室町幕府の将軍直属の軍事担当)をつとめた私部毛利氏の拠点でした。

 この私部は交通の要衝でもあり、重要拠点でした。永禄年間に但馬山名氏が、鹿野城に退去した山名勢の救援のため西へ侵攻したときに一時入城しています。天正年間には、鳥取城を攻略した尼子再興軍が私部を本拠とし因幡国内へ調略を進める中、安芸毛利勢の攻撃により落城しています。さらに天正8年には織田方による因幡攻めに際して秀吉軍に攻略され、その後、但馬の山名氏政がこの城を守備するなど、攻防が繰り返される城でもありました。

 こうした様々な勢力が入れ替わり立ち代わり在城する中で、城館の整備、改修が行われた結果でしょうか。山頂から麓にかけて何本も枝分かれする尾根筋には曲輪と考えられるたくさんの平坦面が残されています。その数はゆうに100箇所を超え、因幡でも有数の大規模山城として今にその姿を残しています。

 当日は、20名の方が参加され、麓から山頂を目指しました。風化した花崗岩が露出した山道は滑りやすい場所が多く、足の置き場を考え、注意しながら登城いただきました。曲輪を何段も登り、約1時間をかけて到着した頂上(主曲輪)からは木々が生い茂ってあまり眺望はきかないのですが、北西に湖山池がちらっと見え、往時は周囲への眺望は広く確保されていたようです。

 また、主曲輪の各所には大きな岩が点在し、平坦面の加工は不十分で凸凹が目立っているのですが、やや下った場所には広い平坦面を確保し、急な切岸を備えた立派な曲輪(写真)がみられ、同じ城の中でも曲輪の造りに違いがあることがわかります。

因幡の重要城郭として威容を感じられる城郭です。

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北東から見た私部城

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急な切岸の前で説明

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天然石を利用した切岸


因幡万葉歴史館で歴史講座「国府町とその周辺の古墳」を行いました。

 令和2年11月8日(日)に、因幡万葉歴史館の歴史講座で、「国府町とその周辺の古墳」と題して講座を行いました。

 埋蔵文化財センターがある旧国府町域には古墳が500基ほどあるなど、鳥取平野の千代川右岸は県内有数の古墳集中地域です。今回は、この旧国府町だけでなく、広く鳥取平野の千代川右岸の古墳について、これまでの発掘調査や新鳥取県史編さんに伴う最新の測量調査などの成果から、この地域の古墳築造の動向やそこから分かる地域の歴史について解説しました。また、時期や内容が分からない古墳も多く、今後の調査により大きく歴史が代わってくる可能性もあることなども話しました。

 参加された33名の方は熱心に聴講しておられ、「鳥取平野以外の因幡では、古墳はどのような場所に築造されていたのか」「国府町域で古墳の航空レーザー測量を行ったらどのようなことが分かるか」などの質問も受けました。

 やや専門的な話もあったのですが、地域の古墳について関心を持っていただけたのではないかと思います。

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地元、公民館で狗尸那(くしな)城の講演を行いました。

 狗尸那城の麓にある小鷲河地区公民館から出前講演の御依頼をいただきました。

令和2年今年5月からはじめた狗尸那城の発掘調査ですが、記者公開により巧妙な縄張や礎石建物跡が新聞などで報道されたことで、地元鹿野の中でも特に御当地小鷲河地区の皆様の館員は高ったとお聞きしていました。元々、当地区では、2003年に『小別所部落誌』を刊行されており、その中に「城山」として狗尸那城を取り上げられていて、地元の山城としての認知度も高かったと思われます。

 さて、講座の方ですが、令和2年1014日(水)は雨の降る肌寒い日でしたが19名の方に参加いただきました。講演の中では調査中に撮影したドローン映像を御覧いただいたほか、調査の様子や、山名氏をはじめ、尼子、毛利、織田(亀井)氏が鹿野の地を抗争の場所としたことなどを解説しました。

 さすがに地元ならでは、詳しい方が多く、狗尸那城に行ったことがあると言われる方もおられました。参加された方にとって狗尸那城はとても身近な山城なので、みなさん最後まで真剣に講演をお聞きいただきました。

 地元の方に、狗尸那城の価値を知っていただくことで、この貴重な文化財の保護が図られていくことを願っています。

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大崎城の案内をしました

 令和2年10月27日に若葉台メンズクラブの皆様を大崎城に案内しました。同クラブは、令和2年7月15日に当センターの出前講演で東部エリアの山城について学習されたことで山城に興味を持たれ、早速、現地見学の運びとなりました。

 大崎城は、鳥取市小沢見にある海に面した山上にあり、「海城」と呼ばれるお城です。参加されたメンズクラブの皆様は22名。ほとんどの方が大崎城は、はじめてということでした。大崎城の歴史の一端を紹介した後、5合目の絶景ポイントに到着すると、皆様、山城登山での疲れを忘れて絶景を満喫されている様子でした。この絶景ポイントから鳥取城(久松山)が見えることを説明すると、「鳥取城への中継基地の意味が分かった。」、「確かにこの城なら海の交通を見張れそうだ。」などの感想、「何人ぐらいの人で城をまもったのか。」などの質問がありました。

 そして、やっと到着した頂上の主郭部分でもみなさんは、前後の海と山の景色を満喫されていました。

 このホームページをご覧の皆様も出前講演や現地見学など、お気軽にお声がけください。

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5合目からの風景

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頂上の主郭での様子


琴浦町で出前講演しました

 令和2年10月9日(金)に琴浦町で出前講演をしました。テーマは、「基礎からわかる中世城館」で参加者8名でした。

 山城の始まりの例の一つが、地元琴浦町の船上山、国史跡後醍醐天皇御幸跡であることや室町幕府の重臣山名氏が初めに守護職を得たのが伯耆国の守護であったことなどを説明すると、みなさんは驚いた様子でした。

 また、地元の八橋城は天正9年の織田・毛利戦争の時に毛利方の吉川軍が拠点として使っていた城で、和睦後の中国国分けの時にも八橋城だけは秀吉方の南条氏に決して譲らなかったこと、地元には高い切岸、深い堀切に加え、何本もの大きな畝状竪堀もある妙見山城があることなども紹介しました。

 みなさんからは、「八橋城はいつからあるのか」との質問や「八橋城はそんなに大事な城だったのか」、「地元に妙見山城のようなすごい城があったとは知らなかった」などの感想があり、地元の遺跡や歴史を知っていただくいい機会となりました。他地域のみなさんからの出前講演のリクエストをお待ちしています。

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講演の様子


道の駅かわはらのウォークイベントで出前講演をしました!

 令和2年9月27日(日)に道の駅清流茶屋かわはらが開催した「嶽古墳探訪とGOGO!西郷谷巡りウォーク」で「嶽古墳」、「中井1号墳」などの説明をしました。

 このイベントは、ノルディックウォーク+地域の歴史を知るという取り組みで、この度は17名の参加でした。開催している道の駅によると、ウォークだけでなく、ウォークコースにある地域の遺跡、歴史の解説があると大変喜ばれるとのことでした。

 「嶽古墳」は、全長50mの古墳時代中頃の前方後円墳と考えられており、旧八頭郡では2番目の大きさとなる古墳です。参加者の皆様は、「嶽古墳」に実際来るのは初めてという方がほとんどで、まず、その大きさに、「こんなところにこんな大きな古墳があったのか。」と驚きの声。その後は、周りを歩いて前方後円の形を確認されたり、後円部分に登ってその高さを体感されたりしていました。また、「因幡の白兎神話」に登場する八上姫を祭っている神社である八上姫神社も見学しました。

 参加者の皆様は、「嶽古墳」や神話のロマンに触れ、満足されているようでした。

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「嶽古墳」を横から見学中(左側の斜面が古墳の側面)

 

出前講演に行ってきました。 

 令和2年9月11日に琴浦町の寿大学で出前講演を行いました。タイトルは「古代から近世の交通について」。近年、話題となっている古代山陰道の話を中心に、古代から江戸時代までの主要ルートや交通手段の変化とその背景についてお話しました。また、近年の調査成果では、湖山池周辺で港に関わる文字資料が出土していることから、山陰地方における海上交通についてもお話しました。

 現代はスマホに代表される通信機器が大変発達していますが、当時の交通は、通信の機能も兼ねていました。そうした意味も含めて、道路やそれに関わる施設の設置場所については、自然環境も含めた様々な要因で決定されたものであり、さらにその後の歴史にも大きな影響を及ぼしたと考えられ、大変重要な研究分野と言えます。

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上期の思い出 若葉台公民館での出前講演(7月15日)

 令和2年7月15日(水)に若葉台地区公民館で出前講演を行いました。テーマは「基礎から分かる中世城館」でした。

 若葉台地区周辺には、大規模な曲輪郡で構成させる私都城(きさいちじょう)があること、私都城以外に近辺に約30もの中世城館があることを説明すると、皆様は、意外に身近にお城があることに驚かれていました。

 私都城は、奉公衆(将軍直属の家臣)だった私都毛利氏が拠点にした城で、因幡守護山名氏の軍勢との戦いがあったことも説明すると、「私都毛利氏は強い武将だったのですね」という声もありました。

また、織田方の因幡攻めの時には羽柴軍もこの城を使ってこの地域を押さえていたなどの話にも皆さん大変興味を持っておられました。

 講演後の質問に、「私都城のある場所は地勢的に重要な場所なのか?」や講演内容とは別に「新聞で話題の狗尸那城は、鹿野城とどちらが古いのか?」などの鋭いものがあり、皆様のお城への関心の深さを感じました。

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講演の様子


鹿野学講座(鹿野地区公民館)で出前講演を行いました。(7月14日)

 令和2年7月14日(火)、鹿野地区公民館で行われた鹿野学講座で、「気多郡の城跡」と題して、出前講演を行い、26名の方に聴講いただきました。

 旧気高郡(鹿野町、気高町、青谷町)は戦国時代、西の出雲尼子氏、東の但馬山名氏、さらには安芸毛利氏、織田氏(秀吉軍)といった外部勢力の激突する場所で、多くの城跡が残されています。講座では埋蔵文化財センターで取り組んでいる調査の様子や戦国時代の気多郡の様子、先日現地説明会を予定していた狗尸那城など地域に残された特徴的な城跡について、参加者の方にご紹介しました。

 参加者から狗尸那城や、コンコノ城について質問をいただく中で、近世の鹿野城だけでなく、中世の山城がについても地元の方の関心が高いことがわかりました。

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講座の様子


琴浦町で出前講演を行いました!(7月10日)

 令和2年7月10日(金)、琴浦町の寿大学で出前講演を行いました。テーマは「砂に埋もれていた大集落~長瀬高浜遺跡の紹介~」でした。

 長瀬高浜遺跡は、湯梨浜町(旧羽合町)の海岸部の砂丘地帯にある遺跡です。参加されたみなさんは、まず、砂丘に遺跡があることに驚かれていました。遺跡のある黒砂層が、ある程度の保水性、粘質性を持ちながら非常に簡単に掘削でき、そのような環境もあったので総数260棟以上の古墳時代の住居が作られていたことを説明すると、「不思議な地層ですね。」という声もありました。

 長瀬1号墳に葬られた人が女性であることにも興味を持たれ、「どうして女性と分かったのか?」などの質問もありました。

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3密対策を講じての講演会の様子

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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