令和4年2月27日(日)に開催したミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』への質問回答の第2弾です。最後は、講演いただいた中井先生への、城の性格についての質問です。
(質問3)城の性格について
中井先生に質問です。中井先生は御著書の中で、関ヶ原の戦い(1600年)以降、移封された大名が新たな居城を築くだけでなく、支城を築いた例を明らかにされています。関ヶ原以後も、亀井氏は西の毛利・吉川への警戒感が強かったと思われ、亀井統治時代の狗尸那城も、直線距離で約2.4km離れた本城の鹿野城(しかのじょう)に対する支城であったという考えができるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
(中井先生からの回答)
関ケ原の戦い後の本支城体制ですが、基本的には国持大名に限られるようです。鳥取では伯耆の中村一氏が米子城を本城とし、尾高城、八橋城、江美城を支城としたようです。さらにこうした支城はすべて石垣造りとなり、狗尸那城の構造は関ケ原後のものとは考えられません。したがいまして鹿野城の支城とは考えられないと思います。
2回に分けてお届けしました質問と回答ですが、いかがだったでしょうか。本シンポジウムを通して、ますます狗尸那城の重要性が明らかになったと思います。狗尸那城の発掘調査に関する詳しい内容は、今月末に刊行する発掘調査報告書に書かれています。専門的な内容ですが、興味のある方は、どうぞご覧ください。
報告書が刊行できましたら、別途ホームページでお知らせします。
狗尸那城上空より日本海側を望む(左下隅が狗尸那城)
鹿野城
[令和4年3月19日掲載]
令和4年2月27日(日)に開催したミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』では、シンポジウム終了後にメールで質問を受け付けた所、多くの方からご質問やご意見をいただきました。その内の幾つかの質問に対して2回に分けてお答えします。
1回目は、城の構造と、城の年代についてのご質問にお答えします。
(質問1)城の構造について
(1)発表の中でお話のあった山麓の居館について、「古仏谷(こぶつだに)から登った所にあったのでは?」とお聞きしましたが、どうでしょうか?また調査予定はありますか?
(2)狗尸那城の縄張りから見て、西側が大手方向(正面)で、現在の林道から取り付く進入路は搦手(からめて)方向(裏側)だと思いますが、どうでしょうか?
(回答)
(1)狗尸那城跡の北麓に位置する「古仏谷」にはかつて水田や畑として利用された階段状の地形があり、そのうちのどこかが居館となっていた可能性を考えることができます。中には広い平坦面もあるようですが、現地は原野となっており、確認ができていません。今後の調査については未定です。
(2)城跡の西側から北側にかけて、山腹に竪堀や曲輪(くるわ)が集中していることから、敵を迎え撃つ方向が意識され、いわゆる大手(正面)と考えられます。
また、ご指摘の林道から取りつく進入路は、狗尸那城跡の背後に設けられた堀切から後ろに伸びる尾根筋の道にあたります。背後からの通路となるので、いわゆる搦手にあたると考えています。
(質問2)城の年代について
(1)縄張りから相対的な年代観を位置付けることがどの程度可能なのでしょうか?できるとすれば、狗尸那城の年代はいつ頃と考えられますか?
(2)出土した土師質(はじしつ)土器は、天神山城(てんじんやまじょう)(鳥取市)出土の土師質土器と比較すると、差異があるようで、時期差を見い出すことは可能でしょうか?
※土師質土器とは、釉薬(うわぐすり)をかけない素焼きの土器のことです。
(回答)
(1)残念ながら、縄張りから相対的な年代を位置付けることは、難しいです。竪堀(たてぼり)を何本も並べた畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)や、山腹を横切るように設ける横堀といった特徴的な防御施設と城跡の廃絶年代の記録を組み合わせることによって、ある程度年代を考えることができるかもしれませんが、まだ見通しを得ていません。
狗尸那城跡は、山腹に設けられた竪堀を伴う大きな横堀が特徴です。鳥取県中部の河口城(かわぐちじょう)(湯梨浜町)は、主郭背後の堀切を山腹にそってぐるりと回すもので、同じような構造を持つ山城と位置付けられるかもしれませんが、はっきりとわからないのが実態です。河口城は天正9年(1581)に織田方の松井水軍に攻略された「泊城」といわれています。今後、縄張りから狗尸那城跡の年代を考える手掛かりになるかもしれません。
(2)ご指摘のとおり、天神山城跡出土の土師質土器皿と、狗尸那城跡出土の土師質土器皿には形態的にも手法的にも違いがあります。天神山城跡から出土した土師質土器皿は、ほとんどが手づくね成形によって作られたいわゆる「京都系土師器皿」と呼ばれるもので、先行研究から16世紀代のものと考えられます。一方の狗尸那城跡出土の土師質土器皿は回転台を使って作ったもので、形や成形手法が異なっています。
狗尸那城跡から出土した陶磁器類のほとんどが、15世紀後半から16世紀前半のものなので、天神山城跡出土の土師質土器皿より古いと考えられ、現在はこの差を時期差ととらえています。
狗尸那城縄張図
河口城縄張図
(『新鳥取県史(資料編)考古3』(2018)より転載)
土師質土器(左:狗尸那城出土 右:天神山城出土)
[令和4年3月14日掲載]
令和4年2月27日(日)の午後、ミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』を開催しました。当センターでは初めてのオンラインのみによる開催で、事前のリハーサルでトラブルがあったこともあり、心配に事欠かない中での開催でした。
実際に開催すると大きなトラブルはなく、約40名の方に視聴していただきました。当センター職員による狗尸那城の発掘調査成果の発表、滋賀県立大学名誉教授の中井均先生による、最新の全国の山城研究についての御講演、そして2人によるトークセッションと、内容は盛りだくさんでした。特に最後のトークセッションでは、狗尸那城の成果について、中井先生から、「日本の城郭史を問い直す成果」というコメントをいただき、嬉しさと共に、調査者として大変身が引き締まる思いがしました。
今回は、コロナ禍のため、オンラインのみのミニシンポジウムとなり、会場での御参加を御希望されていた方々には大変申し訳ありませんでした。今春には専門的な調査報告書を刊行し、それを基に、より多くの一般の方にも分かりやすい情報発信をしていこうと考えています。
今後とも当センターの「中世城館再調査事業」にご期待下さい。
写真1 画面に向かって講演中
写真2 トークセッション中の画面
令和3年度を締めくくる、企画展示「因幡の古墳 -方墳から前方後円墳へ-」が始まりました。今回の展示は、山陰最古級の前方後円墳「本高14号墳」が築造される前期前半の鳥取平野の古墳とその出土資料を紹介しています。
古墳時代前期前半期の山陰では、弥生時代の四隅突出型墳丘墓の系譜を引く方墳が築かれており、地域の伝統的な葬制を引き継いでいました。一方、中国鏡や鉄製品など副葬品の種類・数量は飛躍的に増えており、すでに近畿地方を中心に造られていた前方後円墳に関する情報も入ってきていたと考えられます。
こうした古墳時代開始期の鳥取平野の状況を改めて確認したうえで、前方後円墳である本高14号墳が登場する意義を探ります。
会期は、令和4年3月31日(木)までです。開館時間は平日午前9時から午後5時までですが、3月4日、19日(土)は午後特別開館(午後1時から5時)、その前日金曜日(3日、18日)は午後7時まで開館延長していますので、どうぞ御利用ください。
現在開催中(令和4年1月7日から2月18日)の企画展「因幡の中世城館」の展示品の紹介です。
喫茶文化を感じさせる出土品として、「茶臼(ちゃうす)」を紹介します。
喫茶が普及するようになったのは12世紀末以降、禅院から武士階級へと広がったとされています。15世紀に入ると茶の味や香りによって産地を判別する、「闘茶(とうちゃ)」が行われるなど、茶は生活の中に浸透していきました。
「茶臼」は合わさる面に臼目が刻まれた上臼、下臼を芯木で接続し、上臼の上部に作られた穴に茶葉を入れ、上臼の横につけた挽き木を回して上臼を回転させることで茶葉が上下の臼目に挽かれ、粉末の「茶」となって下臼の受け皿にたまっていきます。
天神山城跡の出土品は、下臼の一部で、芯木を差し込んだ穴があり、臼目が刻まれていることがわかります。出土品の中にはお茶を飲んだと思われる天目茶碗(てんもくちゃわん)も出土しており、戦国時代の因幡守護屋敷では、上級の武士にふさわしく喫茶の習慣があったことがわかります。
喫茶文化を感じさせる出土品「茶臼(ちゃうす)」
あけましておめでとうございます。
本日(令和4年1月7日(金))より、企画展示「因幡の中世城館」を開催します。
今回の展示では令和3年度に埋蔵文化財センターで実施した狗尸城跡(鳥取市鹿野町)の発掘調査成果と、昭和42年度、昭和63年度に発掘調査を行った天神山城跡(鳥取市布勢)の調査資料の一部を紹介しています。
天神山城跡の資料は、京都系土師器皿を中心に展示しています。戦国時代、地方武士は、京都で行われていた武家のならわしを取り入れ、大量の土師器皿を使った儀式や宴会を行い、その時に使った土師器皿は大量に捨てられていました。天神山城跡は因幡守護山名氏が居住した守護所で、京都で作られていた手づくね技法による皿を模倣した京都系土師器皿がたくさん出土しています。文書史料や日記などの記録から、地方でも武士は儀式や宴会を年に何十回も開催しており、その多くは正月が中心と言われています。天神山城跡の京都系土師器皿も、かつての正月行事に使われたものかもしれません。
狗尸那城跡では、曲輪と曲輪の間に設けられた切岸(人工的に削った急な崖)部分を新たに調査し、改修された痕跡や、礎石建物跡と同時期に整備されたと考えられる石積みを確認したところです。斜面に積まれた石積みは、崖の崩落防止のほか、石による整備によって城を見せるような効果を狙った可能性がうかがえ始めました。
埋蔵文化財センターにお越しいただき、ぜひ展示をご覧ください。
大雪警報のため、予定していた令和3年12月25日(土)、26日(日)の開催は25日(土)のみの開催となってしまいましたが、冬休みスペシャルイベントを開催しました。
今回の体験メニューは、「ミニチュア山城をつくろう!」と「めざせ忍者マスター!手裏剣投げ体験」でした。
「ミニチュア山城をつくろう!」では、近年、全国的にも注目されているクシナ城跡(鳥取市鹿野町)と国史跡若桜鬼ヶ城跡の2500分の1スケールのミニジオラマを作りました。このミニジオラマ、体験用のおもちゃのように思われるかもしれませんが、実は航空レーザー測量という方法で得られた地形データをもとに3Dプリンターでモデル型を作った精巧なものです。このミニジオラマ作りは、先ほど説明した新しい技術を体験メニューにも応用した当埋蔵文化財センターならではのものです。
体験されたみなさんからは、「ミニジオラマ作りを通して、山城の構造が体感できた。」、「行ったことのあるお城のジオラマを作ったのでよりお城のことが分かった。」、「ミニジオラマ作りと歴史解説が一緒でよく分かった。」などの感想がありました。
また、手裏剣投げ体験も大変好評でした。最初は上手くできなかった参加者も職員にコツを伝授してもらうと見事命中。命中した方はセンターオリジナル記念品がゲットし、参加者の皆様が体験後、笑顔で帰って行かれました。
当埋蔵文化財センターでは夏休み、冬休み、春休みにこのような楽しい古代体験を実施しています。次は春休みイベントを予定していますので楽しみにしていてください。ホームページチェックもお忘れなく!!
ミニチュア山城作りに熱中!
見事完成!!
手裏剣見事命中!!
企画展示「因幡の国府とその周辺」の会期(令和3年10月22日(金)から12月24日(金)まで)は残すところ1週間余りとなりました。展示品の紹介第3弾で、今回は「題箋軸」(だいせんじく)です。
題箋軸とは書類を巻く木製の道具で、書類の内容を記す題箋部(小さな板)と書類を巻く割りばしくらいの太さの軸の部分で構成されます(写真1)。多くの場合は、出土時には軸の部分は折れてしまっていることが多いものです。今回の企画展示には、昭和52年に実施された国府地区県営ほ場整備事業に伴う発掘調査で出土した題箋軸の復元品を展示しています。
出土したのは題箋部だけで(写真2)、表面に「仁和二年假文□」(にんなにねんけぶみ、最後の1文字の□ははっきりと見えませんが、「案」と考えられています。)、裏面に「仁和二年假文」の墨書(ぼくしょ)が残っています。大きさは、長さ7.3cm・幅2.7cm・厚さ5mm程度です。仁和2年(西暦886年)は平安時代の前期に当たります。
出土した地点は国庁域内を東西方向に通る砂利敷道路(幅約14m)に平行する溝の中です。道路は、鎌倉時代頃の土器などが数多く含まれる地層に覆われており、鎌倉時代頃までは使用されていたこと、この道路の下層にはさらに古い時期の石敷が見られることも報告されています。
さて、「假文」とは律令制下の役人の休暇願で、「暇文」や「仮文」と表記することもあります。都で勤務する役人を例にとると、「仮寧令」(けにょうりょう)というきまりで、6日に1日の「六假」(ろっか)や農繁期の「田假」(でんか)など休暇願が不要ないくつかの休暇が認められています。これら以外に私用で休暇を取得する場合には、「請假解」(せいかげ)という休暇願を提出して承認される必要がありました。東大寺にあった「写経所」の請假解が正倉院文書の中に数多く残されており、休暇の理由には、病気や衣服の洗濯、家の修理など様々なものが見られます。また、承認された休暇を過ぎても出勤しない役人への召喚状(召文(めしぶみ))や、承認された休暇以上に休むための欠勤届である「不参解」(ふさんげ)も見られます。不参解には、病が回復しない旨を訴えたものもあり、都で勤務する役人の実態が具体的に分かる資料となっています。
因幡国府遺跡で出土した題箋軸には、承認済の休暇願又は休暇願と承認結果がとりまとめられた書類が巻き付けられていたと考えられます。また、□部分が「案」であるとすれば、因幡国府から上級機関に提出したこれらの書類の控えを巻き付けて保管していたものと考えられます。
写真(1)題箋に書類が巻いてあるようす(鳥取県立博物館蔵)
写真(2)因幡国府で出土した題箋軸の表(左)・裏(右)
今回の企画展では、因幡国府遺跡の発掘調査で出土した墨書土器(ぼくしょどき)の一つを展示しています。展示している土器は、国庁の中心施設である正殿(せいでん)や後殿(こうでん)が発見された一画で出土しています。文字は、須恵器(すえき)の坏形(つきがた)土器の底面に書かれており、昭和53年に鳥取県教育委員会によって発行された『因幡国府遺跡発掘調査報告書6』では1字目が「南」、2字目は不明としています。企画展示をするにあたり、今回改めて埋蔵文化財センターにある「赤外線撮影装置」で文字を撮影してみました。
1字目は文字の上端部の墨が消えてはいますが、「羊」の文字を囲むような筆跡があることから、発掘調査報告書どおり「南」で納得できます。
問題は2字目です。曲線の山が3カ所あるような文字です。全国の出土品に書かれている文字例をデータベース化した奈良文化財研究所の「木簡庫」で、文字「南」の例を検索してみたところ、647例ヒットしました。このうち、「南」が先頭で2文字完結する単語は、「南門」、「南方」、「南郡」、「南部」、「南北」、「南東」、「南西」、「南宅」、「南山」、「南道」、「南部」などの例がありました。これらのうち、曲線の山が3カ所あるのは、どうも「門」のようです。
「平城宮内裏北方官衙地区」出土木簡の「北炬門」例の「門」の字、あるいは「平城京左京二条二房五坪二条大路濠状遺構(北)」出土木簡の「外南門□大原□磯部□二人」の「門」の字に比較的似通っていることから、2文字目は「門」とするのが妥当と考え、展示土器の墨書は「南門」としてよいと考えます。また、国庁に南門は付設されるものですので、南門と墨書された土器があっても不自然ではないと考えています。
なお、企画展示は令和3年12月24日(金)までとしていましたが、25日(土)、26日(日)の冬休みイベントに合わせて、午後は開館していますので、どうぞお見逃しなく。
墨書土器の赤外線撮影映像
[令和3年12月13日掲載]
子ども達お待ちかねの恒例企画『冬休みスペシャルイベント』を今年も開催します。
今年は、令和3年12月25日(土)、26日(日)の午後に開催します。25日(土)は、「ミニチュア山城をつくろう!」、26日(日)は、「古代ゴマを作って回そう!!」、そして、両日とも「めざせ忍者マスター!手裏剣投げ」を体験することができます。
「ミニチュア山城をつくろう!」は、今、話題の戦国時代の山城「クシナ城跡」のミニジオラマを作る体験です。これでいつでも戦国時代の山城を手の上で観察できます。
「古代ゴマを作って回そう!!」は、古代のコマを作って回して楽しむ、お正月向け季節限定体験です。
「めざせ忍者マスター!手裏剣投げ体験」は、忍者になりきって的めがけて手裏剣を命中させるゲームです。君は何個の手裏剣を的に当てることができるかな?自分の腕前を埋蔵文化財センターで試してみよう!!
普段できない体験ができるこの2日間、埋蔵文化財センターで今年最後の楽しい思い出を作ろう!!
また、イベント開催中は企画展「因幡の国府とその周辺」もご覧いただけますので、この機会に是非ご覧ください。
【冬休みスペシャルイベント】
期間:令和3年12月25日(土)、26日(日)
時間:〔ミニチュア山城(25日)・古代ゴマ(26日)〕
・第1回:午後1時30分から午後2時30分
・第2回:午後3時から午後4時
※定員:各回10名(完全事前予約制-申込〆切:12月24日(金))
申込方法:当センターHP申込みフォーム、メール、電話
〔手裏剣投げ体験(25・26日)
・午後1時~午後5時 ※先着順で体験
会場:鳥取県埋蔵文化財センター
ここをクリックするとチラシが開きます。 (pdf:685KB)