11月の第2日曜、今日は日南町多里(たり)の「多里のかしら打ち」の日です。
…寒っ‼ ただ今の気温10度、くもり…でも、前日からの雨が長引かなくてよかった。
「多里のかしら打ち」は、11月の第2日曜に祭りの装束で着飾った人々が太鼓=かしらを歌い踊りながら打つ、という日南町多里地区の秋祭りで行われる伝統芸能です。もとは多里地区の中の新屋(にいや)集落の青年だけで行っていましたが、昭和40年ごろから人手不足のため、青年だけでなく女性や子どもも参加し、多里地区全体で行われるようになりました。同じく日南町の福栄に伝わるものと合わせ、「日南のかしら打ち」として、県の無形民俗文化財に指定されています。
午後一時前、多里の桜ヶ瀬会館の玄関周りでは男性たちが午後の部の出発前に談笑しています。花笠の下には紅白の垂れが揺れ、手甲には黄色い房飾りがついている…こうした装束は、すぐれぬ空模様の下でもその場を明るくしています。
多里かしら打ち保存会のみなさんは、午前中は多里地区の家々を訪問し、午後からは児童も加わって集落内の通りで立ち止まって囃子を唱えながら太鼓を打ち、踊り、また次のポイントまで移動する、ということを繰り返します。そして、最後は太鼓を車に積んで多里神社まで移動し、収穫に感謝し、五穀豊穣と家内安全を祈願して拝殿の前でかしら打ちを奉納して、祭りは終了するのです。
午後一時、雨が降ってきましたが、メインストリートでのかしら打ち、スタートです。
「ビッチューウ!」と叫ぶリーダー。
数種類ある打ち方の一つ「ビッチュウ」を披露する、と位置についたみなさんに伝えると、打ち手は花飾りのついたばちを掲げ、息をそろえ、囃子をうたい出し、踊りとともに太鼓を打ちます。手甲にも鈴がついていますが、かすかに聞こえるだけで、ほとんど太鼓の音と囃子のみが響きます。
非日常の衣装を着け、楽器を打ち鳴らし、日本に育ったのなら、意味がよくわからなくても、どこかで聞いたことのある囃子を耳にし、リズムに合わせ、手首を返してばちをまわして腰を落とす。
…もうこの最初の動きだけで、記者の心はかくも躍る!
打ち手のほか、露払いの猿田彦(赤い天狗面。下の写真左)が一団とともにあたりを清めながら踊って歩きます。今年の猿田彦さんはすらりと背が高く、舞がよく映えます。
そして道化役かつご祝儀回収係の「茶利(ちゃり)」(写真右)。お面以外は現代の普段着です。
「祭りは酒に始まり、酒に終わる」と言っていた今年の茶利さんがおもしろおかしく踊りながら同道し、一団を盛り上げます。小さい子を「親の言うことをちゃんと聞くか~!」と泣かせながら…(もう大きい子たちは正体を知ってしまったので、茶利のおじさんを見ても笑うばかり! ちなみに、泣くか笑うかのボーダーは4才だそうです)。
ご祝儀を手に、家の前で一団を待っていた人たちも、「茶利はどこだぁ~」と笑顔、笑顔。この日の帰省してきた人たちも笑顔、笑顔。
「この祭りがなけりゃ寂しいわ。神さんだけぇ、ありがたい。わがままは言えれんけど、うちの家の前で打ってもらいたいですが」
「みんな大変喜んで待っとります」
一団が過ぎ去るまで目で追いかけていた集落のみなさんは笑顔の半面、なごり惜しいようなほっとしたような顔をされていました。多里の行事は年内これで最後なのです。
農村地帯では農事の最後を秋祭りで締めくくれば、もう冬はすぐそこ。
今年の祭りは寒く、雨が降っていましたが、みぞれの年も雪の年もあったそうな。
雨がいったんやみ、振り返れば虹が。さすが、わが県!(よく雨が降り、よく虹が出る鳥取県なのです)
車で進んでいった一団は多里神社に到着しました。
「タテマツリーィ!」と打ち方が告げられ、境内の銀杏の絨毯の上での奉納が始まります。記者もいつしか音頭を取り、別の打ち方、「テンテコ」や「トンティトー」の中のぴょんぴょんと飛ぶ振りのところでは一緒に動きたくなりました。
最後は一同、礼。
多里地区の出身者、在住者だけでなく地域おこし協力隊の若者も加わって、みんなで行った多里のかしら打ちは無事に終了しました。…いい祭りでした♪
そして、今年も大仕事を終えたという晴れやかかつ、ほっとした顔でみなさんが引き上げていく空には、二度目の虹が。
再び降り出していた雨もすっかりやみ、寒いながらも柔らかい陽射しが目には温かい。
そんな姿を見ると、祭りは、その日にその場所で、そして曇りでもやはり明るい戸外でやるのが一番いい、そう感じた記者でした。
■こちらに解説と動画があります>>鳥取伝統芸能アーカイブ『多里かしらうち』
なお、文中に出てきた「演者の役割の呼称・表記・役割の説明」その他全般については「新鳥取県史 民俗1 民俗編」によりました。
日野振興局 2023/11/17