鳥取県教育委員 中島諒人
子どもの中に秘められた潜在力/可能性に気づき、それを大切にし、注意深く育てるのが教育の仕事だ。潜在力/可能性は、どんな花が咲くか分からない種子のようなもの。
赤い花かもしれない、青い花かもしれない。
赤い花が流行っている時には、誰もが赤い花の開花を期待し、それに向けた育て方をしたくなる。しばらく育てた後に、赤い花が期待できないと分かることもあるだろう。
その時どうするか。その花を無価値と決めて、育てるのをやめるか。意地でも赤い花に変えるべく無理な力をかけ続けるか。
当たり前だが、それでは本来の花は十分に開花しない。枯れることもあるかもしれない。同じ花ばかりでは、野原は成り立たないし、青い花が野原の将来の危機を救うことだってあるかもしれないのに。
教育は、種子の可能性に息をひそめて寄り添い、わずかな顕われから未来を予想し、育て方を自在に変える創造的な営みでなければならない。育てる側には多くのことが求められる。まず問われるのは想像力。種子の未来の姿を、自己のせまい価値観に縛られることなく、否定ではなく肯定的にイメージできなければならない。種子が秘めたかすかな手触りを感知し、敬意と驚きをもって将来を想像する。時の経過、状況の変化に合わせてイメージを修正する柔軟さも必要だ。角を矯めて牛を殺してはならないのはもちろんだが、角のない牛もいるし、牛に姿が似た全然違う生き物もいるだろう。それぞれをそれぞれの未来に向けてサポートしなければならない。
学校で起こる多くのトラブル、不適応などにおいて、一方の当事者である子どもの側に問題があると考え、それを修正あるいは排除しようという考えになることが多い。
けれど、問題の発生を現行教育システム(あるいは社会)と子どもの潜在力/可能性の間のズレと考えることもできるだろう。現在と未来の間のきしみかもしれない。もしかしたら、ある問題事象は、システム側のアップデートの必要を指摘しているかもしれない。子どもたちが問題を通じて発している声に耳を傾けなければならない。
教育の場面に限らないが、複雑で解決困難な問題は、一人の分かりやすい犯人を探し出したいという欲求を募らせる。気持ちも分からないではない。が、それは問題の本質的な解決を導かない。じっくりと事の本質を見つめ、思考する時間も大切にしなければならない。
人はみな、自己の秘めた力を空に向かって大きく伸ばしたいと思っている。それは、野放図でバラバラな利己へ向かうのではない。それぞれの成長は、よりよいものへ向上したいという普遍的で根源的な願いに支えられている。一つひとつの種子が静かに語ることに、耳と心を澄まさなければならない。今の社会に必要な人間を育てるのではない。
子どもの中の形にならないものを尊重し、今の社会を更新しながら、まだ見ぬ社会を生きる人間を育てなければならない。