800年余り前、壇ノ浦の合戦で瀬戸内海の藻屑と消えた平家一族。栄枯盛衰・諸法無常の象徴となった彼らの後日譚は西日本各地にみられるが、鳥取もその例に漏れるものではありません。
まず、祖母・二位の尼の懐に抱かれて入水、わずか7年の生を閉じた安徳天皇。しかし、この幼帝は生き延びていたという言い伝えがあります。彼は祖母と数人の臣人に守られて小船に乗り、風波にまかせて壇ノ浦から日本海へ脱出。いったん隠峠国に漂着したが、波が高くて上がれず、向きを変えて東へ。そして賀露の浜(鳥取市)に上陸したのです。
このとき、通りすがりの宗源という僧が一行を助け、仮の皇居わ八頭町姫路に設けて帝を移しました。ここに忍ぶこと2年、しかし時運の到来なく、帝は鳥取市国府町荒舟に出かけた折、急病に倒れ、そのまま息をひきとられたそうです。
亡骸は宗源により葬られ、同町内の寺に石堂が建った(岡益の石堂)。帝の墓とされるのは、このほかに八頭町の五輪塔郡もあります。 南に下った若桜町のある部落には、合戦後、落武者となった平経盛が家来20名余とともに逃れ、洞窟の中に隠棲。死後、やはり五輪塔に埋葬されたという言い伝えが残っています。墓の傍らに立つイチイの巨木は葉の色を七色に変化させ、これは平家の七盛、つまり「盛」の名を持つ7人の一族の霊を慰めるためだといわれています。