最近は歴史好きまたは歴史通の女性が「歴女」と呼ばれるなど、“歴史”とくに“戦国時代”に興味を持つ方が増え、全国各地の城跡には多くの人々が訪れています。お城の石垣は見所のひとつですが、長い年月を経たせいか、ところどころに崩れた場所を見かけます。
しかし、それは本当に自然に崩れたものなのでしょうか?
八頭郡若桜町にある「若桜鬼ヶ城」は、町の中心部から南側にそびえる鶴尾山(標高452m)に戦国時代の終わりから江戸時代のはじめごろに作られた貴重なお城のひとつとして、平成20年3月に国の史跡に指定されました。
山頂には石垣で囲むことによって守られた郭と呼ばれる平らな場所や、天守閣が建てられていた跡が残っています。この城は羽柴(後には豊臣)秀吉が鳥取城を攻め落とした後、その家来である木下重堅、続いて山崎家盛によって、それまでの小さな山城を改造して築かれました。
やがて江戸時代となり、鳥取藩に池田氏が入ると「一国一城令」によって若桜鬼ヶ城は取り壊されます。
今、山頂の郭を訪れると石垣から崩れ落ちた石がいくつも散らばり、あちこちの石垣には大きく崩れた場所が目立ちます。これらは自然に崩れただけでなく、天守閣などの建物といっしょに人の手によってわざと壊された跡なのです。
これは「もう若桜鬼ヶ城を“戦さ”のために使わない」ということを人々に示すために、「破城」と呼ばれる戦国時代以来の決まりごとが行われた証拠と考えられます。このような跡がよくわかる城は県内でもここ、鬼ヶ城だけです。
ただし、決まりごとといっても城を全部壊さなくても、よく見えるところの石垣を壊して「城はもう壊れて使えませんよ」とみんなにわかればよいのです。
城に残る石垣を見わたすと、ふもとから城を見上げてよく見える場所は大きく崩れていますが、人目につかない裏側はあまり崩れていません。
若桜鬼ヶ城は、江戸時代を通して存在した鳥取城や米子城とは一味違い、「戦さ」が現実のものであった時代の雰囲気を伝える古城跡なのです。
鳥取県内には、こうした城跡が500以上残っています。あなたの家の近くにも城跡があるかもしれません。