鎌倉幕府の成立からおよそ1世紀半。
武士が支配する幕府を打倒しようとして2度も失敗、隠岐島に流されていた後醍醐天皇は元弘3(1333)年閏2月に島を脱出。伯耆国(現在の大山町辺り)にたどり着き、地元の武士・名和長年の支援を得て船上山で再び倒幕の旗をあげます。
やがて幕府を倒すことに成功した天皇は、5月23日に京都に戻るために船上山を出発しますが、それまでの約3ヶ月間、天皇の命令はここから全国に出されており、鳥取県が一時日本の中心であったわけです。
天皇の意思を侍臣が代わって伝える書状を「綸旨」と言いますが、当然天皇の直筆で出されることはありません。ところが3月4日付で巨勢宗国(相見氏の祖先)という武士の功績に対して恩賞を約束している左近中将(千種忠顕)の名前で出されている綸旨は、その筆跡から天皇が自ら書かれたものであることがわかります。
さらに通常は一度使用した紙をリサイクルした薄墨色の上(宿紙)を使う決まりになっているのが、白い楮紙に書かれており、これも極めて珍しいことです。
2月28日に船上山に入られた天皇の辺りには、まだ綸旨を書くべき侍臣も足らず、決められた用紙も手許になかったため、異例が重なった文書となったと想像されます。これ以外の5月5日付の綸旨は筆跡も天皇のものとは異なり、綸旨本来の形式で宿紙に書かれています。
後醍醐天皇といえば、何度失敗してもくじけず、あきらめず、不屈の闘志で南北朝時代を生き抜いた人物として知られますが、この直筆綸旨の力強い筆跡からは、その強烈な個性が偲ばれます。
あわただしい船上山の戦陣の中で、伯耆の一武士の戦功に対して天皇自らが筆を執られるという、切迫した空気が文字のかすれ具合からも伝わってくるようです。