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作家・吉村昭の小説に「間宮林蔵」があります。謎多き探検家の波瀾万丈の生涯を描いた作品ですが、この中で、間宮が文化4(1807)年、択捉島の番所に勤務していたとき、幕府から通商を断られたロシアのレザノフが、報復のため引き起こした「択捉島襲撃事件」に巻き込まれたときのようすが活写されています。

このように、幕末の日本列島周辺には異国船が頻繁に出没するようになり、にわかに緊張が高まったので、幕府も文政8(1825)年に「異国船打払令」を出すなど対応に追われる最中、嘉永6(1842)年にはペリー来航という大事件も起きました。

鳥取藩でも、こうした情勢の緊急性から、鳥取城下に近い千代川河口近くや橋津(湯梨浜町)、淀江(米子市)など年貢米を納める藩倉がある地など、藩内の重要地点9ヵ所に、文久2(1862)年から三年間という短期間で台場を造り始めました。

また、台場に据える大砲を製造するため、西洋式の鉄精錬所である反射炉を六尾(北栄町)に設けました。これらの施設を造るため、郷士・武信潤太郎に長崎で西洋砲術も学ばせました。

けれども、当時の鳥取藩の財政は火の車。とても肝心の台場を造るお金がありませんでした。そこで、豪農、豪商から多額の献金をうけ、郷士や農民、町人を動員して何とか完成させました。

現在、県内には、浦富(岩美町)、橋津、松江藩防備のためにつくられた「境台場跡」由良(北栄町)、赤崎(琴浦町)、淀江、境(境港市)と6ヵ所もの多様なかたちの西洋式台場跡が残っていて、うち5ヶ所が国の史跡に指定されていることは他県にはない大きな特徴です(※)。

最近では、複数の台場跡をめぐる「台場ツアー」(琴浦町)や「台場サミット」(北栄町)など、台場を活用する取組も始まっています。

幕末の郷土の先人たちが、鎖国か開国かという大きな歴史のうねりの中で造り上げた貴重な遺産をこれからも県の宝として大切に活用していきたいですね。
※残る赤崎台場跡も国史跡に指定されることが11月20日に内定しました。
  

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