史跡鳥取藩主池田家墓所は、初代藩主・池田光仲(みつなか)の墓所として元禄六年(1693)、現在の鳥取市国府町奥谷を池田家の廟地と定め、光仲を埋葬したことにその起源をたどることができる。光仲の埋葬に合わせ、この地には「千岳庵」が建立された。千岳庵は、翌元禄七年(1694)に伯耆国久米郡定光寺からその末寺の寺号を貰い受け、「清源寺(せいげんじ)」と改められ、池田家の菩提寺である興禅寺の末寺として、明治初年に廃寺となるまで墓所の管理を担なっていた。墓所内には、初代藩主光仲以後の歴代藩主十一代をはじめ、藩主夫人・御分知家「東館」「西館」当主等も葬られている。現在、合わせて七十八基の墓碑が立ち並び、周囲には二百六十基をこえる灯籠が家臣等により供えられている。また、藩主墓域に向かう参道両側には、初代光仲の寵臣和田三信と光仲の側室や菩提寺住職の墓もある。
池田家墓所の墓碑の特徴は、歴代藩主の墓碑の形にみることができる。藩主の墓碑は、いずれも玉石垣をめぐらした台上に三段の台石を重ね、その上にさらに亀を象った「亀趺(きふ)」と呼ばれる台石に円頭扁平な墓標を立てた壮大なもので「亀趺円頭(きふえんとう)」の墓碑といわれている。また、藩主以外には宝塔形の墓碑や江戸時代に一般化した石碑墓標等が見られる。これらから大名家の葬法や、江戸時代の墓制に見られる階層差を見ることができる。豊かな四季に恵まれた墓所の静寂の中では、今も因伯三十二万石の大名家の栄華に想いを馳せることができる。