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天文5年(1536年) |
池田恒興、尾張国に生まれる。 |
永禄7年(1564年) |
池田輝政、尾張国清洲に生まれる。十歳の時初めて織田家に仕える。 |
天正12年(1584) |
小牧・長久手の戦において、池田恒興戦死。 |
天正15年(1587) |
豊臣秀吉、島津義久を征伐。池田輝政、九州に従軍し、羽柴の姓を与えられる。 |
文禄3年(1594) |
輝政、秀吉の命により徳川家康の娘督姫と結婚。 |
慶長5年(1600) |
輝政、家康より石田三成討伐の為、福島正則とともに先陣を命じられる。
輝政、三州吉田を改めて播磨五十二万石を賜わり、姫路城主となる。
輝政の弟長吉、因幡国鳥取城に入り、六万石を領す。 |
慶長8年(1603) |
輝政第二子忠継、備前二十八万石を領す。 |
慶長18年(1613) |
輝政、姫路において死去。五十歳。第一子利隆が遺領を継ぐ。 |
元和元年(1615) |
忠継死去。弟忠雄が遺領を継ぐ。 |
元和3年(1617) |
利隆死去。池田光政、幼少につき播磨から因幡・伯耆に移封。 |
寛永7年(1630) |
池田光仲(のち初代藩主)生まれる。 |
光仲 |
寛永9年(1632) |
忠雄死去。三十一歳。忠雄第一子光仲、三歳にて父の遺領備前岡山を継ぐが、幼少により池田光政と国替、因幡・伯耆両国三十二万石を領し、鳥取城主となる。 |
寛永15年(1638) |
光仲、将軍家光の前において元服し、従四位下侍従・相模守と称す。 |
慶安元年(1648) |
光仲、鳥取に初入国、鳥取長寿院で東照宮三十三御神忌を実施。 |
寛文元年(1661) |
綱清(のち二代藩主)、将軍家綱の前で元服。従四位下侍従・伯耆守と称す。 |
綱清 |
貞享2年(1685) |
光仲隠居により、綱清が二代藩主となる。
光仲第二子壱岐守仲澄家(東館)、石高二万五千石(のち三万石)で分知。 |
元禄6年(1693) |
光仲、鳥取において死去。六十四歳。因幡国法美郡奥谷村(池田家墓所)に葬る。 |
元禄8年(1695) |
吉泰(のち三代藩主)、綱清の養子となる。 |
吉泰 |
元禄13年(1700) |
吉泰、綱清のあとをうけ家督をつぐ。
光仲第五子河内守清定家(西館)、石高一万五千石(のち二万石)で分知。 |
宝永5年(1708) |
吉泰、加賀前田綱紀の娘敬姫と結婚。 |
享保16年(1731) |
宗泰(のち四代藩主)、将軍吉宗の前で元服。従四位下侍従・出羽守と称す。 |
宗泰 |
元文4年(1739) |
因幡・伯耆両国にまたがる「元文大一揆」が起きる。
一揆の最中、吉泰五十三歳で死去。宗泰が家督をつぐ。 |
重寛 |
延享4年(1747) |
宗泰三十一歳で死去。嫡子勝五郎(のち五代藩主・重寛)わずか二歳で家督相続。 |
寛延2年(1749) |
重寛が幼少のため、幕府は鳥取藩政を視察する国目付を派遣。 |
宝暦6年(1756) |
藩校尚徳館を創立。 |
宝暦9年(1759) |
重寛、将軍家重の前において元服し、従四位下侍従・相模守と称す。 |
明和5年(1768) |
重寛第三子治道(のち六代藩主)、江戸藩邸で生まれる。 |
治道 |
天明3年(1783) |
重寛死去。治道、鳥取藩三十二万石を家督相続する。 |
天明4年(1784) |
治道、将軍家治の御前で元服の式を行い、従四位下侍従・相模守と称す。 |
天明7年(1787) |
治道第一子銀之進(のち七代藩主斉邦)、鳥取城で生まれる。 |
天明8年(1788) |
斉稷(のち八代藩主)、江戸藩邸で生まれる。 |
寛政4年(1792) |
用人佐々木磯右衛門、藩主治道に、次期藩主について諫言。 |
斉邦 |
寛政10年(1798) |
治道三十一歳で死去。斉邦、家督相続を認められる。 |
寛政12年(1800) |
斉邦、将軍家斉の御前で元服の式を行い、従四位下侍従・相模守と称す。 |
斉稷 |
文化4年(1807) |
斉邦二十一歳で死去。斉稷、将軍の前において元服、従四位下侍従・因幡守と称す。 |
文化10年(1813) |
斉稷、米沢城主上杉治広の三女信姫と結婚。 |
文化14年(1817) |
斉稷、将軍家斉の十二男徳川乙五郎を養子とする。 |
文政7年(1824) |
乙五郎、将軍家斉の前で元服、従四位上侍従に任じられ、斉衆と改名。 |
文政9年(1826) |
斉衆、疱瘡にかかり死去。斉稷の子誠之進(斉訓)を世子とする。 |
斉訓 |
天保2年(1831) |
斉訓、将軍家斉の前で元服の式を行い、従四位下侍従・因幡守と称す。 |
天保3年(1832) |
慶行(のち十代藩主)、壱岐守仲律の長男として生まれる。 |
天保5年(1834) |
加賀中納言前田斉泰の二男、喬心丸(のち十一代藩主慶栄)生まれる。 |
天保7年(1836) |
天保の大飢饉。藩財政危機。 |
天保8年(1837) |
のち十二代藩主慶徳、水戸中納言徳川斉昭の五男として生まれる。 |
天保11年(1840) |
斉訓、将軍家斉の娘泰姫との婚儀が行われ、従四位上に叙任。 |
慶行 |
天保12年(1841) |
斉訓、江戸藩邸にて死去。年二十二歳。慶行、十歳で十代藩主となる。 |
天保13年(1842) |
慶行、将軍家慶の前で元服の式を行い、従四位下侍従・因幡守と称す。 |
慶栄 |
嘉永元年(1848) |
慶行、鳥取城で死去。 |
嘉永2年(1849) |
慶栄、将軍家慶の御前で元服の式を行い、従四位上侍従・因幡守と称す。 |
慶徳 |
嘉永3年(1850) |
慶栄、藩主になり初めてのお国入りの途中、京都伏見にて十七歳で死去。
幕府は慶徳に養子を命じ、従四位下侍従に叙任、相模守と称す。 |
慶応4年(1868) |
鳥取藩は東京行幸供奉を命じられる。 |
明治2年(1869) |
慶徳、新政府の議定に任ぜられる。 |
明治4年(1871) |
廃藩置県により池田家は東京に移る。 |