今年の調査区では、南北方向に延びる水路の跡がみつかりました。
この水路からは「寛永通宝」がみつかっており、江戸時代から使われていたようで、杭と横板を組み合わせた護岸施設が残されていました。
興味深いことに、この水路は江戸時代の絵図にその姿が描かれていることがわかりました。その絵図とは、鳥取藩が年貢を取り立てるために、村ごとに田んぼや畑の形を描いた「田畑地続全図(でんぱたじつづきぜんず)」と呼ばれるものです。鳥取県立博物館には1845年(弘化2年)につくられた青谷上寺地遺跡周辺の「田畑地続全図」が残されており、調査の測量図面と絵図とを重ねると、調査でみつかった水路と、絵図に描かれた水路の位置がピッタリと一致することがわかりました。
この水路は田畑の区画に表される地名、「字(あざ)」の境界線となっており、水路の西側の字は「法花寺(ほっけじ)」、東側の字は「上寺地」と呼ばれています。弥生のムラの中心部にかかる、この「上寺地」の字名が、遺跡の名前として採り上げられているのです。
江戸時代の水路
江戸時代の水路の護岸施設