平成19年度、伯耆地方の綿栽培用具をテーマとして、日吉津村民俗資料館の所蔵する民具を調査し、その調査結果の一部は第25回「県史だより」に報告しました。
綿の種をまくための浅い溝を引く「綿まき鍬」、綿作が行われる保水力の弱い砂地に水を撒く「水汲桶(みずくみおけ)」、綿の収穫に用いる「綿篭」など、日吉津の綿栽培用具はみな今となっては貴重なものばかりです。しかし日吉津のみならず、鳥取県において重要な産業であった伯耆地方の綿栽培に関する民具コレクションとして考えた場合、足りない部分があると考えていました。
どのような作物でも、大量生産をする場合にはその肥料の確保が問題となります。その肥料に関して伯耆地方、特に綿栽培が盛んであった弓浜半島においては、中海のモバ(藻葉)(注1) が多く使われていたことが知られています。そのモバを採集する用具が日吉津村民俗資料館には所蔵されていなかったのです。
中海に面していない日吉津村ではモバ採集用具がなくても当然かも知れません。しかし弓浜半島、伯耆の綿栽培と考えた場合、中海のモバ採集用具は欠かせない資料です。このモバ採集用具はケタ(桁の字をあてることもある)と呼ばれており、ケタは米子市山陰歴史館、米子市彦名公民館などに所蔵されています。この度、2館を訪ねて調査を実施しました。
このケタの使用方法は次のようなものです。
図1 ケタ(米子市山陰歴史館所蔵)
ケタを水中に沈め、つないだロープを10メートルほど伸ばし、舟を漕ぎ少し進めてロープの反対側に碇を下ろして舟を固定し、一人でロープを引き寄せます。するとケタの爪にモバが引っかかって引き上げられます(図2、3参照)。
図2 ケタ使用法(河田久寿氏画)
採集時期は梅雨頃から9月までで、2人で2挺のケタを使い、明け方から作業を始めると、一日の採取量は外海の手繰網舟で1艘に満載する程度だったといいます。それは大八車で3~4台くらいでしたが、海岸に数日放置すると発酵して容積が減って運搬しやすかったといいます(注2)。
図3 昭和前期のケタによるモバ取りの様子
『境港市史』(境港市、1986)870頁から引用
このケタですが、米子市彦名公民館所蔵の6点を比較した場合、巾が1360ミリから850ミリまで大きさはさまざまです。ケタのモバを引っかける鉄製の爪部分に注目しても長さ245ミリから93ミリまで多様で、さらに上向きの反りがあるもの、下向きに反りがあるものがあるなどかなり異なります。この違いについては、モバ取りを経験した古老からの聞き取り調査を計画中です。
さらにケタに注目した場合、ケタと共にモバ採集に必要不可欠な舟についても調査し、その種類や違いについて明らかにしなければなりません。
これから取り組むべき課題は多くありますが、伯耆地方の綿栽培用具に関するデータを蓄積し、まとめていきたいと思います。
(参考文献)平塚純一・山室真澄・石飛裕『里湖モク採り物語』生物研究社、2006年
(注1)アマモという種類の海草。弓浜地方では「モバ」、または「モンバ」という。
(注2)米子市山陰歴史館所蔵のケタの寄贈者、河田久寿氏執筆の「弓浜地方におけるモバの効用とけたによるモバ採取」と題された原稿(米子市山陰歴史館所蔵)参照。
(樫村賢二)
前回のコラムで、1841(天保12)年5月16日に9代藩主池田斉訓(なりみち)が亡くなった前後の飛脚の動きを紹介した。この時、藩主の死を伝える飛脚は、大雨による川止めで大幅に到着が遅れ、鳥取の家老たちに情報が届いたのは、死の10日後、5月26日だった。
まだ22歳だった斉訓には、男子がなく、正式な跡継ぎが決まっていなかった。そのため、斉訓の死は、表向きは隠さなければならなかった。江戸からの手紙にも、死亡したという直接的な表現はなく、病気が重くなり、「恐れ入り奉り候旨」とぼかされている。
この後、早急に後継の藩主を決定し、幕府の許可を得なければならない訳だが、決定には江戸・鳥取の両方にいる藩主の一族や重臣の了解を得る必要があった。また、ことの性質上、極秘裏に進める必要もあった。ここで動いたのは、当時江戸藩邸の最高責任者であった家老の鵜殿藤輔だった。彼は独断で5月21日に江戸を出発し、6月6日に鳥取に帰国しているが、翌7日には、緊急の飛脚を江戸に出発させている。この飛脚が江戸に到着した後の15日、鳥取藩の江戸御留守居役が、分家東館の三田(みた)屋敷を訪問し、当主仲律(なかのり)の長男亀丸(後の10代慶行)を斉訓の急養子とすることを打診している。おそらく、7日の飛脚によってもたらされた指示によるものと考えられ、分家から養子を迎えることは、鵜殿藤輔帰国後、短時間のうちに決定されたようだ。
そして、17日には東館から急養子を承諾する旨の回答があり、20日には、江戸御留守居役が内々に、斉訓の名前で老中水野越前守に、亀丸を急養子にしたいと願書を差し出す。水野越前守は、天保の改革で有名な水野忠邦のことだ。水野から問題ない旨の返答を27日に得て、30日、鳥取藩は斉訓の重病を正式に幕府に届け出る。これも斉訓自身が届けた形を取っており、建前上はまだ生きていることになっている。これに対し、幕府は、将軍からの病気見舞いの上使を7月3日と9日に鳥取藩江戸藩邸へ派遣している。幕府の方も、嘘を承知で対応しているようだ。そして、ようやく10日に、斉訓が亡くなったことが亀丸の名で届けられ、幕府は鳥取藩を亀丸(10代藩主慶行)が継承することが認められる。
実際の死から約2ヵ月近く、表向きは生きているふりをし続けていたわけだが、遺骸はどのように保存されていたのか、どれだけの人が真実を承知していたのか等、素朴な疑問は涌いてくる。ただ、建前上の事が記される藩の公式記録には、その辺りは読み取れない。
因みに、斉訓の遺骸は、この後7月21日に江戸を出発し、8月15日に鳥取に着き、19日に奥谷の墓所に葬られている。
(県史編さん室長 坂本敬司)
5日
仕事始め。
8日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
10日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
11日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
13日
農民・労働運動関係資料調査(~15日、法政大学大原社会問題研究所、西村)。
15日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
19日
民具調査(米子市山陰歴史館、樫村)。
21日
農民運動関係資料調査(米子市、西村)。
22日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
26日
資料調査(八頭町郡家、西村)。
27日
民具調査(旧東伯町民俗資料館、樫村)。
30日
民俗調査(~31日、岩美町・鳥取市気高町、樫村)。
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