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晩婚化の今昔

生田春月の所感

 江戸時代、若くはもつと以前の日本人の生活では、十四五歳にして、もうすでに多くは結婚をしたらしく思はれる。その頃の人には「少女時代」は殆んどなかつたと云つてもいい。それに此頃では、二十四五までも、十分の少女の生活をなし得ると云つてもいいのは、反つていい事ではあるまいか。女の人にとつて「少女時代」の豊かで十分であるといふのは、ほんとに幸福である。(後略)

 ハイネの翻訳で有名な米子生まれの詩人、生田春月(いくた しゅんげつ)が大正末年に刊行した随筆集のなかに(注1)、女性の結婚年齢についての一節があります。続けて彼は、女性が結婚前に知性や心を育むことの重要性を説き、「まちがつた結婚を出来るだけしない方がよい」といっています。奔放な結婚生活を送った春月の発言として興味深いものがありますが、ともあれ、彼は女性の晩婚化傾向を好ましい社会変化と見ていたようです。

 今回の「県史だより」では、彼が(おそらく何らかの統計的根拠ではなく同時代の実感に基づいて)言及した結婚年齢について、記録を年代順にたどってみたいと思います。

江戸~明治時代の初婚年齢

 時代を遡るほど資料は限られてきますが、村単位の事例研究から(注2)、江戸時代中後期の日本では平均初婚年齢が上昇の趨勢にあったと考えられています。また、東日本は早婚で西日本は晩婚という傾向もあり、とくに早婚だった東北地方では、春月がいうように14~15歳で結婚する女性も多かったようです。この地域的傾向は明治初期の資料からも観察されていますが、山陰地方について見れば、中部地方や近畿地方ほど晩婚ではありませんでした(注3)

 鳥取県の結婚年齢に関する最も古い記録としては、1882(明治15)年の統計表があります。いわゆる事実婚は調査対象外だったと思われますが、この資料によると、平均初婚年齢は、男性23.1歳、女性19.9歳になります(注4)

第1回国勢調査のデータ

 下って、春月が冒頭の文章を書く少し前の1920(大正9)年には、日本初の近代的人口センサス、第1回国勢調査が行われています。その調査データから計算される平均初婚年齢は、男性25.0歳、女性21.2歳です。したがって、春月のいう24~25歳は、結婚する当時の女性にとって、平均より高いけれど特別に珍しいほどではない年齢だったでしょう。

 鳥取県の場合、平均初婚年齢は全国平均よりもやや低く、男性23.1歳、女性20.4歳です。先ほどの1882(明治15)年の資料とは調査・計算の方法が違うので単純比較はできませんが、大づかみに見ると、明治から大正にかけて初婚年齢はそれほど変わらなかったといえそうです。

その後の推移

 1920(大正9)年以降の時代については、終戦の年を除いて5年毎に国勢調査が行われてきたため、平均初婚年齢の推移を知るのは難しくありません。グラフに表せば下のとおりで、戦争直後などの例外はありますが、ほぼ全期間にわたって上昇していたことが分かります。とくに1920年代後半~30年代と70年代後半以降の上昇は顕著で、21世紀になった現在、男性の初婚年齢は31歳、女性は29歳に届こうとしています。昭和に入ってからの晩婚化は、実に速いペースで進んだのです。

平均初婚年齢の推移のグラフ

(注)1920(大正9)年以降は、国勢調査結果による5年毎の「静態平均初婚年齢(SMAM)」を直線で結んだ。全国は国立社会保障・人口問題研究所編『人口の動向 日本と世界:人口統計資料集』2009年版(厚生統計協会,2009)表6-23、鳥取県は鳥取県統計課ホームページの公表データ(第4表)から計算。SMAMの概念と計算方法は、日本人口学会編『人口大辞典』(培風館,2002)413~414頁を参照。
1882(明治15)年は、「鳥取県管内結婚統計表」(「鳥取県史料」第11巻所収)による初婚者の平均年齢。原表には、「男女共初縁」、「男初縁女再縁以上」、「女初縁男再縁以上」、「男女共再縁以上」という4区分の年間結婚件数と平均年齢が記載されているので、男女別に結婚件数をウェイトとして計算。「鳥取県史料」については、第6回「県史だより」を参照。

今昔を比べて

 春月が冒頭の文章を書いた大正時代、女性は確かに江戸時代と比べると晩婚になってはいましたが、いつかはほとんどが結婚し、子供を産みました。例えば、1920(大正9)年の女性の生涯未婚率はわずか1.8%(鳥取県1.1%)でしたし、合計特殊出生率(女性1人あたりが生涯に産む子供の数)は5.09(鳥取県5.01)でした(注5)。しかし、今ではずいぶんと様相が異なり、2005(平成17)年の女性の生涯未婚率は7.3%(鳥取県5.2%)に上昇、合計特殊出生率は1.31(鳥取県1.47)まで落ち込んでいます。

 近年、晩婚化とともに「非婚化」や「少子化」が進み、現代人が少子化問題という大きな課題に直面していることは、1930(昭和5)年に自死した春月には予期できない社会変化だったでしょう。

(注1)生田春月「少女美」(『草上静思』交蘭社,1926)114~115頁。

(注2)速水融・鬼頭宏「庶民の歴史民勢学」(新保博・斎藤修編『日本経済史2 近代成長の胎動』岩波書店,1989)280~282頁など。

(注3)速水融「明治前期統計にみる有配偶率と平均結婚年齢」(『三田学会雑誌』第79巻第3号,慶応義塾経済学会,1986)。

(注4)本文中、初婚年齢の出所については、図を参照。

(注5)本文中、生涯未婚率の出所は初婚年齢と同じ、合計特殊出生率は前掲『人口の動向 日本と世界:人口統計資料集』2009年版,表12-33。

(大川篤志)

室長コラム(その33):巧妙に盗み取られた倉吉御蔵米

 前回の室長コラムでは、年貢米を収める御蔵を管理する御蔵奉行について書いたが、今回は、天保14(1843)年に倉吉の御蔵で発覚した御蔵米の盗難事件について紹介しよう。

 事件の内容に入る前に、まず藩の御蔵について説明しておこう。鳥取藩には、鳥取・米子・倉吉の三つの町と、海岸に面した9つの港に御蔵が設置されていた。御蔵の中には、当然のことながら、米を収める蔵が建ち並んでいた。湯梨浜町橋津には、現在も1棟の蔵が当時の姿のまま残されており、藩倉の典型的な形を伝えている。すなわち、1棟の蔵は細長い建物で、中を3つに仕切られ(2つの場合もある)、それぞれ入口が付いている。一つの入口から出入りする空間を「戸前(とまえ)」と言い、内部が3つに仕切られている蔵は、「1棟3戸前」と表現される。御蔵には、このような蔵が複数立ち並んでいて、各蔵にはそれぞれ名称を付けて管理されていた。倉吉御蔵の場合、御蔵の中は古御蔵と新御蔵に分かれ、それぞれ6棟ずつの蔵があり、ともに1番から6番まで番号が付けられていたようだ。そこに、倉吉周辺の70ヵ村の年貢米、約1万5000俵が収められた。

 御蔵には、下級武士である御蔵奉行と御蔵目付が派遣されて常駐し、敷地内にそれぞれの御小屋があった。この二人の他に、農民や町人出身の「御蔵番」(蔵の番人)と「中背」(米の運搬を行う)が雇われ、米の出し入れや数量の点検、その際の施錠と解錠などは、御蔵奉行の立会の元で、実質的にはこの「御蔵番」と「中背」が行っていたようだ。

 さて、倉吉御蔵での盗難事件だが、その発端は、内部告発だった。「中背」の内3名が、同僚の「中背」が不正に御蔵米を盗み取っていることを御蔵目付に報告した。調べてみると、盗みに関わっていたのは、「中背頭」を含む中背3人と、御蔵番が共謀していた。盗みの手口はこうだ。

 まず、蔵の3つある扉の一つの、錠前を掛ける取っ手部分の金具を抜けるようにしておく。これにより、錠前をかけていても、解錠せずに蔵の中に入ることができる。施錠する場合は、必ず御蔵奉行が封印する決まりになっていたが、その封印を破ることなく中に侵入できるようにしておいた。ただし、全ての蔵で行うと発覚しやすいと考えたのか、当初は新御蔵の1番と6番の蔵だけ、この仕掛けを行っていたが、後には古御蔵の1番と6番にも仕掛けている。

 蔵の内部の3つの「戸前」は、本来行き来はできない構造になっていたが、そこに通路を作り、他の「戸前」へも入ることができるようにした。1ヵ所から入れば、建物の内部全ての米が盗めるようにしたわけだ。

 このような仕掛けをした上で、こっそりと蔵に侵入し、鼠が食べた後のような形になるように、小刀で俵を切り裂き、米質の検査に使う「刺竹」で米を少しずつ抜き取る。盗んだ米は、御蔵敷地内の普段使っていない物置等で俵に詰め直し、それを持ち出して売りさばく、というものだ。盗まれた米の量は、年間4、50俵に及んでいた。

 驚くことに、このような盗みは13年前から行われており、その間、歴代の御蔵奉行・御蔵目付たちは全く気付かなかったと供述している。当時は、保管する米のある程度は、鼠に食べられるのが当たり前で、その損害はあらかじめ想定されていた。盗む側が、毎年ほぼ一定量を盗んでいれば、前年通りの「鼠喰い」として不審にも思われなかった。また、盗まれた米の量は、御蔵全体から見ればごくわずかであり、御蔵の内実を知り尽くした者によって巧妙に行われた犯罪は、御蔵奉行たちには見抜けなかった。もちろん、事件発覚後、歴代の御蔵奉行たちは厳しい処分を受けている。一方、盗みを行った「中背」たちは、捕まる前に逃走し、行方不明となっている。ちなみに、米1石(2.5俵)を金1両とし、1両を現在の約30万円と想定すると、1年間に盗まれた米(50俵として)の金額は、現在であれば600万円程度になる。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2009(平成21)年7月

2日
新鳥取県史編さん委員会事前協議(鳥取大学、岡村)。
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
5日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
6日
近世史料調査(琴浦町箆津、坂本)。
資料返却(大山町壹宮神社、樫村)。
7日
第1回新鳥取県史編さん委員会(公文書館会議室)。
9日
民具調査(鳥取市佐治町、樫村)。
10日
近現代資料調査(境港市史編纂室、西村・大川)。
14日
古墳測量協議(鳥取市古郡家、坂本・湯村)。
15日
民俗調査協議(三朝町・倉吉市関金町、樫村)。
16日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
21日
考古資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
22日
民俗・民具調査(米子市彦名公民館・米子市山陰歴史館、樫村)。
27日
満蒙開拓青少年義勇軍聞き取り調査(八頭町久能寺、西村)。
28日
船岡村兵事資料調査(県立公文書館、現代部会)。

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編集後記

 県史編さん室では、県史だよりでその活動成果等の情報をお伝えしていますが、今年度は県の広報誌、「とっとり県政だより」にて「郷土の歴史を次世代へ」を連載中です。そちらも是非、御注目ください。

(樫村)

  

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