博士の所見
先日、県立図書館で新たに公開された明治時代の新聞をめくっていたところ、1906(明治39)年3月4日付『鳥取新報』のある記事に目が留まりました。それは、日本の近代心理学のパイオニア、元良勇次郎(もとら ゆうじろう)博士による、丙午(ひのえうま)の俗説に関する談話です(注1)。
丙午にまつわる俗説について、詳しい説明はいらないでしょう。60年に一度、干支が丙午となる年には災害が起こり、この年に生まれた女性は男性を不幸にしてしまう。大雑把にいうと、そんな内容です。もちろん、科学的根拠はありません。記事が書かれた明治39年は、まさにその丙午の年でした。
元良博士は、慎重にも俗説を頭ごなしに否定することを避け、学者による啓蒙も大事だけれど、「徒に災が有る無いの水掛け論は、凝り固まつた感情に対して何の効がない」ので、国民の注意を別にそらすよう工夫するのがよい、といいます。
ただ、博士がこの談話で言及している丙午の俗説は、もっぱら災害の発生に関することだけです。丙午といえばまず女性への偏見を思い浮かべる現代人にとっては、少し意外でスッキリしないところでしょう。
人口統計に映る明治39年の丙午
元良博士が言及しなかったからといって、丙午生まれの女性への偏見がなかったわけではありません。明治39年に女児出産への忌避感情があったことは、当時の統計資料からも確かめられています。
例えば、第1回国勢調査実現への尽力で知られる統計学者、呉文聰(くれ あやとし)は、早くも1911(明治44)年刊行の著書のなかで、人口動態統計の月別データに不自然な点が見られることに気付いています(注2)。明治39年の後半の出生は男児の割合が非常に高く、逆に翌40年の初めは女児の割合が高くなっていたのです。この2年間を合計すれば性別に大きな偏りはありませんでした。
これについて、呉の説明はこうです。俗説に影響された親が丙午の明治39年内の女児誕生を忌避し、翌年になってから出生届を出したケースが多くあった、と。こうした出生年のごまかしを、かつては「生れ年の祭り替へ」といったそうです。
後の研究者によると、明治39年の出生を前年のものとして届け出るケースもあり、表1のとおり明治39年の出生数が前年から4.0%(女児は6.8%)減少しているのは、かなりの部分、届出が意図的に前後の年へずらされたための見かけ上の現象だと考えられています(注3)。
鳥取県の場合、明治39年の出生数自体はあまり減少していないものの、男児への偏りは全国と同じように見られ、出生届のごまかしの存在を示唆しています。
60年前に遡ると…
呉文聰は、明治39年という「開明の世」に未だ「生れ年の祭り替へ」が行われたことに驚いています。では、時代を遡ると、そうした手段によって丙午の俗説をかわすことは、もっと広範に行われていたのでしょうか?
明治39年の一つ前の丙午は江戸時代の1846(弘化3)年ですが(注4)、人口動態が体系的に調査されていなかった当時の年々や月々の出生数は分かりません。ただ、明治19(1886)年末現在の統計から弘化3年生まれ前後の人口を見ると、表2のとおり、同年生まれは前年生まれより9.5%(女性は16%)も少なく、男性割合の高さも顕著でした。鳥取県の数字は、さらに極端です(注5)。このことから、確かに、出生年のごまかしは広く行われていたと見られます。
しかし、それだけでは、ここまで偏った男女の割合は説明できません。女児出生後のいわゆる「間引き」や、成長過程での高死亡率などといった別の要因の存在も示唆されるのです。
現代では…
丙午の俗説を信じ、出生年のごまかしや、間引きのようなより直接的な手段で女児誕生を避ける人びとは、弘化3年から明治39年へと60年の歳月を経て減っていきました。であれば、明治39年の次の丙午、高度経済成長の最中である1966(昭和41)年には、俗説の影響はさらに小さくなったのでしょうか?
そうではありませんでした。驚くべきことに、昭和41年の出生数は、前年から25%減と、明治39年のときよりはるかに大きく落ち込んだのです(注6)。
ただし、その減少幅は、男女で大きくは違いませんでした。出生数減少の大きな要因は出生届のごまかしではなかったのです。もちろん、間引きでもありません。多くの現代人がとった選択肢は、60年前には普及していなかった受胎調節(避妊)という新しい手段でした。つまり、妊娠そのものが避けられたのです。
結びにかえて
丙午の俗説を信じて女児誕生を忌避する人は、江戸や明治の世のみならず、戦後の高度経済成長期にすら大勢いました。しかし、その手段は時代によって様々でした。
また、俗説の社会的影響は地域によっても大きく異なっていました。鳥取県の場合、弘化3年には全国でもっとも女性人口の減少幅が大きい地域でしたが、明治39年や昭和41年にはそうでもありませんでした。このあたりの地域差の背景については、まだ充分な解明がなされていません。
そもそも丙午の俗説といっても、その内容は一様ではなかったようです。例えば明治39年頃の新聞には、丙午の俗説として、元良博士のように災害発生にだけ触れる記事や、男児の誕生も忌避する内容の記事が散見されるのです。
俗信を信じるか否か、どういう手段で対応するのかといった事柄は、人びとのデリケートな内面に関わることです。それだけに多様で、なかなか窺い知ることは難しいのですが、当時の文化や世相を映す、興味深い歴史の一面といえるでしょう。
(注1) 「丙午と迷信」(『鳥取新報』1906年3月4日)。なお、実際の紙面には「元良理学博士の談」とありますが、「元良文学博士の談」の誤記と判断しました。能勢岩吉編『日本博士録』第1巻(教育行政研究所,1956;日本図書センター,1985)によれば、この年、元良という姓の博士は文学博士の元良勇次郎しかいなかったからです。
(注2)以下、呉の所説については、呉文聰『戦後之出生 附丙午の迷信』(1911,国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」を利用)。
(注3)村井隆重「ひのえうま総決算」(『厚生の指標』第15巻第5号,厚生統計協会,1968)など。
(注4)以下、弘化3年の状況については、黒須里美「弘化三年ヒノエウマ」(『日本研究』第6集,国際日本文化研究センター,1992)。
(注5)弘化3年生まれの女性人口が極端に少なかったことは、第46回「県史だより」でご紹介した明治19年の人口ピラミッドからも見て取れます。
(注6)以下、昭和41年の状況については、前掲村井論文など。
(表出所)表1は内閣統計局編『日本帝国人口動態統計』(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」を利用)、表2は内務省編『日本帝国民籍戸口表』による本籍人口(同)、表3は前掲村井論文5頁および鳥取県編『衛生統計年報』より。
(大川篤志)
民俗部会では、鳥取県内の重要な民俗である両墓制(注)を調査し、その特色等を明らかにするための調査を実施しています。
2010(平成22)年7月30日に、大山町前谷地区と大山町教育委員会の御協力を得て、ヒヤ(遺体を埋葬する墓)の測量調査を実施し、460基の位置を確認しました。
ヒヤでの測量調査の様子
2010(平成22)年8月12日は、お盆前のお墓への花立てにあわせて、上前谷地区、下前谷地区の役員の方々が中心となり、墓の管理者や埋葬されている方を特定する聞き取り調査を実施しました。
墓地での聞き取り調査の様子
上前谷、下前谷両地区の方々の御協力により、両墓制の調査は順調に進行しています。
(注)日本の墓制の一つ。土葬を基本とする墓制で、1人の死者のために遺体を埋葬する墓(ウメバカ・ヒヤ)のほかに、供養のために詣る墓(マイリバカ・ハカ)を設ける。遺体を埋葬した墓で供養を続ける単墓制に対して両墓制とした学術用語。
2日
資料調査(県立博物館、西村)。
考古部会事前協議(鳥取大学、湯村)。
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
出前講座(名古屋市女性会館、岡村)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
5日
民俗部会事前協議(米子市西福原、樫村)。
6日
鳥取城跡報告書作成検討会(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
7日
鳥取学講義(鳥取環境大学、樫村)。
9日
12日
13日
14日
民具調査(鳥取県立二十世紀梨記念館、樫村)。
15日
民俗調査(鳥取市佐治町、樫村)。
21日
資料調査(鳥取県立博物館、湯村)。
民俗調査(米子市大崎、樫村)。
26日
古墳測量調査協力依頼(鳥取市久末地区、湯村)。
民具調査(米子市立山陰歴史館、樫村)。
27日
大山僧坊跡等調査委員会(名和公民館、坂本)。
28日
民具調査(鳥取県立二十世紀梨記念館、樫村)。
29日
県史編さん専門部会(現代)開催。
30日
県史編さん専門部会(近代)開催。
中世史料調査(兵庫県朝来市、岡村)。
両墓制測量調査(大山町豊成、湯村・樫村)。
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