はじめに
戦国時代の伯耆国は、尼子・山名・毛利・織田といった戦国武将の対立・抗争の舞台として、数多くの戦いに見舞われました。特に「国人(こくじん)」と呼ばれる中小領主の多くは、有力大名たちの狭間で生き残りをかけた厳しい戦いを強いられていきました。
東伯耆に勢力を持っていた南条氏も、そのような国人の1人です。ここでは南条宗勝(なんじょうそうしょう)の活動を中心に、伯耆国の戦国武将の生きざまに迫ってみたいと思います。
南条氏について
南条氏は東郷池南部の羽衣石(うえし)(東伯郡湯梨浜町)を本拠とする一族です。
南条氏の本拠が置かれた羽衣石谷の風景。中央に見えるのが羽衣石城。
室町時代には守護に代わって政治を行う「守護代」に任じられていました。1447(文安4)年に京都にある南条氏の宿所が攻撃されたという記録があることから(注1) 、当時、南条氏もしばしば上京していたものと推察されます。
戦国時代の南条氏は、小鴨氏・浅津氏・山田氏といった国内の有力な一族や、美作国(岡山県北部)の国人たちと手を結んで東伯耆一帯に強固な勢力を形成しました。
史料は多く残されていませんが、東郷池を中心とする水運との関わりや、美徳山(三徳山)・一宮など有力寺社との結びつきもあったと考えられます。
尼子氏の伯耆侵攻と南条氏
16世紀初頭、出雲から尼子経久(あまごつねひさ)が伯耆へ侵攻を開始しました。『伯耆民談記』(1742年成立)には、1524(大永4)年5月に経久が大軍を率いて出雲から伯耆へ攻め込んだとありますが、実際はそれ以前からたびたび侵攻を繰り返していたと考えられます(注2) 。
1530年代に入ると、尼子氏の勢力が東伯耆にも及ぶようになります。この頃、尼子詮久(あきひさ)(のちの晴久(はるひさ))率いる尼子軍は、上洛を目指して美作や播磨への軍事侵攻を繰り広げていました。この動きを受けて、南条氏・小鴨氏をはじめとする東伯耆の国人たちは美作の国人たちと手を結んで詮久に対抗します(注3) 。しかし軍事力に勝る尼子軍に敗れ、以後は尼子氏に従っていきます。
尼子・大内の戦いと南条氏
『羽衣石南条記』(1722年頃成立)によれば、南条宗勝は1514(永正11)年に父親の死去を受けて18歳で家督を継いだとあります。しかし実際は、1563(永禄6)年に父親の33回忌を営んでいることから(注4) 、父親の死去は1531(享禄4)年頃である可能性が高く、宗勝が南条家の実質的な当主になったのもこの頃ではないかと思われます。
この頃の宗勝は「国清」と名乗っていました。実は「宗勝」というのは剃髪(ていはつ)後の法名であり、「国清」が当時の宗勝の実名であったと考えられます(注5) 。
尼子氏に従った南条国清は、1540(天文9)年に尼子軍の一員として毛利氏の本拠郡山城(広島県安芸高田市)攻めに動員されます。しかし、この戦いで尼子軍は大敗し、敗れた国清は敵方である大内氏に投降しました。
その2年後、今度は大内軍が出雲国へ攻め込み、尼子氏の本拠である富田城(島根県安来市)を攻撃しました。このとき、南条軍は大内軍の先導を務めています。しかし、この戦いで大内軍は惨敗し、国清は再び敗者となっていくのです。
南条氏の因幡・美作への退去
このように、大内・尼子の戦いの中で、2度にわたって敗北を喫した南条国清ですが、その後の動向は定かではありません。ただ、当時の東伯耆は実質的に尼子支配下にあったため、羽衣石への復帰は容易に実現しなかったと思われます。
では、その後、国清はどうなったのでしょうか。
この時期の国清の動向を示す興味深い史料が名古屋大学に残されています。それによれば、富田城攻めで敗北した後、国清は因幡へ向かい、但馬・因幡の両国を統治していた但馬守護の山名祐豊のもとを頼っていることがわかります(注6) 。
しかし、尼子氏の勢力が因幡へ広がると、1547(天文16)年頃、国清は山名配下の武田氏の意見を受けて、美作国の大原(現岡山県美作市)へ退去しています。当時の国清の書状には「播磨まで罷り退く覚悟である」と記されていることから、その後は播磨方面へ向かったものと推察されます(注7) 。
このように、伯耆を離れた後、国清は安芸・出雲・因幡・美作・播磨といった周辺諸国を転々としていったと考えられます。
南条氏の羽衣石城復帰
南条国清の羽衣石への復帰が実現するのは、1562(永禄5年)のことです。この頃、中国地方では尼子・大内氏の勢力が後退し、毛利元就が勢力を広げていました。毛利氏の勢力は山陰方面へも及び、国外に退去していた他の伯耆国人たちも毛利氏の支援を受けながら次々と帰国しました(注8) 。
約20年ぶりに羽衣石城に戻った国清は、「元清」と改名します。この「元」は当時の毛利家当主である毛利隆元の一字を授かった可能性もあります。
そして、直ちに北条八幡宮など南条家と所縁の深い東伯耆の神社に社領の寄進や神主職の安堵などを行い、地域基盤の回復に努めました(注9) 。翌1563(永禄6)年5月には 、但馬の円通寺(兵庫県豊岡市)から花庵という僧侶を呼んで伯耆国の光孝寺(現山名寺、倉吉市巌城)で父親の33回忌を営んでいます(注10) 。このときの法要には一族の結束を固める意味も込められていたのかもしれません。
毛利氏の東伯耆支配と南条氏
光孝寺で法要を営んだ頃、元清は剃髪して、法名「宗勝(そうしょう)」を名乗ります。そして、以後は「豊後入道宗勝」という名で史料に登場します。
1564(永禄7)年、宗勝は伯耆国人らを率いて鹿野城(鳥取市鹿野町)を攻撃します。これが宗勝にとって羽衣石復帰後の最初の大きな戦いでした。この戦いで宗勝は勝利をおさめ、毛利元就からその働きを賞賛されています。
そして毛利氏から東伯耆3郡(河村・久米・八橋郡)の統治を任され、毛利氏の山陰支配の一翼を担っていくのです。
こうして、伯耆最大の戦国武将に成長した宗勝ですが、1575(天正3)年に「不慮の病死」を遂げます。一説には杉原盛重に毒殺されたと言われていますが(注11)、真偽の程は定かではありません。
宗勝の死去により南条家中は不安定な状況に陥りました。翌1576(天正4)年には毛利と織田の対立が表面化し、信長の誘いの手が東伯耆へも伸びていきます。宗勝の後を継いだ南条元続が毛利を離反して織田方に寝返るのは、宗勝の死から3年後のことです。
おわりに
戦国時代、南条氏をはじめとする伯耆国の国人たちは、周辺の大名たちの対立・抗争の中で数多くの戦いを強いられました。相次ぐ戦闘の中で滅亡に追い込まれていった一族も少なくありません。
そのような時代にあって、南条宗勝は三度の敗北と20年にも及ぶ国外流浪を経験しつつも、最後は伯耆最大の戦国武将として地域の歴史に名を残しました。
戦国時代といえば「天下人」と呼ばれるような著名な武将たちの華やかな活躍ばかりが注目されますが、敗北や流浪を繰り返しながらも乱世の時代を精一杯生き抜こうとした南条宗勝のような武将の姿こそ、当時の多くの戦国武将たちの実際の生きざまだったのではないでしょうか。
(注1)『建内記』文安4年3月条。
(注2) 高橋正弘『因伯の戦国城郭―通史編―』(自費出版1986年)。
(注3) (天文2年)6月23日新居国経書状(「東寺百合文書」) 。
(注4) 小坂博之「花庵行実録抄」(『鳥取県立博物館協会報』13号、1976年)。
(注5) 国清・元清・宗勝の関係は鳥取県史ブックレット4『尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県、2010年)37頁参照。
(注6) (天文16年ヵ)4月8日南條国清書状(「真継文書」)。
(注7) (天文16年ヵ)3月26日南條国清書状(「真継文書」)。
(注8) 尾高城主行松氏や淀江付近の村上氏も永禄5年頃に帰国したと思われる。
(注9) 永禄5年7月3日元清書状写(「北条八幡宮所蔵文書」)。
(注10) 小坂博之前掲4参照。
(注11)松岡布政 『伯耆民談記』(1742年)。
(岡村吉彦)
2日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
4日
古墳測量現地確認(湯梨浜町橋津、湯村)。
NPO未来守りネットワークアマモ・コアマモ勉強会(境港市夢みなとタワー、樫村)。
5日
資料撮影(湯梨浜町長和田地区自治公民館、清水・岡・足田)。
6日
資料調査(米子市立山陰歴史館、渡邉)。
7日
資料(千歯扱き)調査(米子市立山陰歴史館、樫村)。
8日
中世史料調査(岡山県立博物館、岡村)。
古墳地権者調査(鳥取地方法務局、湯村)。
13日
14日
15日
遺物借用(鳥取県立博物館、湯村)。
16日
写真資料調査(松江市本庄町、樫村)。
21日
中世史料調査(~22日、下郷共済会・長浜市長浜城歴史博物館、岡村)。
遺物調査(むきばんだ史跡公園、湯村)。
資料(千歯扱き)調査(岩美町小田交流館、樫村)。
25日
鳥取藩政資料研究会(鳥取県立博物館、渡邉)。
26日
28日
30日
★「県史だより」一覧にもどる
★「第76回県史だより」詳細を見る