防災・危機管理情報


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江戸時代の大雪

はじめに

 今年2月、山梨県や関東地方は大雪に見舞われました。鳥取県内では今冬大雪被害はありませんでしたが、平成22(2010)年末から翌年始にかけての大雪は記憶に新しいところです。

 これらの記録的な大雪は別として、温暖化の影響で昔より積雪量は減少しているというイメージを持つ人も多いと思います。そこで、江戸時代にはどのくらいの雪が降ったのか、また雪によりどのような影響があったのか、当時の史料から探ってみたいと思います。

降雪時期と積雪量

 江戸時代にはどのくらいの雪が降ったのでしょうか。18世紀中頃に活動した鳥取藩士・佐藤長健の著作である「因府録」には、次のように書かれています。

【史料1】(注1)
御国(因幡国:鳥取県東部)の風土は、近畿・中国地方とは異なり、天気は曇りがちで雨が多く、冬は10月の末より雪が降り、12月から明くる年の正月・2月の初めまでは雪が消えない。しかし東国などと異なり、寒さも薄く冬は暖かい。このことにより、積った雪のが解けるのは、関東などよりは早い。氷柱(つらら)ができることは少ない。霜柱(しもばしら)などというものが立つ事はない。積雪は、山間部では年によって四~五尺(約120~150センチ)、六~七尺(約180~210センチ)にも及ぶが、御城下ではおよそ三尺・四尺(約90~120センチ)積もる時は大雪と言う。

 この文章からは平常時にどのくらい積雪があったかが分かりませんが、鳥取城下では90センチほど積もると「大雪」と表現されたようです。また降雪が始まるのは10月末で、積雪があるのは12月から2月初めとありますが、もちろん当時の文章は旧暦で書かれていますので、現在の暦でいうとおおむね12月初めから降雪があり、1月から3月初めまで積雪があったということになります。

大雪の影響

 江戸時代、大雪は人々にどのような影響を与えたのでしょうか。江戸後期の鳥取藩士・岡嶋正義(1784~1858)が著した鳥取の史書「因府年表」は、大雪についての記事を数多く掲載しています。宝永5(1708)年12月(史料2)及び文化8(1811)年1月(史料3)の記事を見てみましょう。

【史料2】(注2)
16日 大雪降る。積雪はおよそ8~9尺(240~270センチ)。8~90年ほどこのような大雪はなかったと言われている。寒さはとりわけ強く、湖山池は凍り、氷の厚さはおよそ5尺(150センチ)となり、人馬は数日の間その上を行き交った。翌年3月になりようやく氷が溶け、船の通行ができるようになったという。稀代の酷寒である。(雪により)潰れる家も多い。また道中にて吹雪のために倒れ死ぬものが少なくない。
(中略)
28日 この頃積雪が多いため、互いの年末年始の挨拶を延期するよう仰せ出された。
【史料3】(注3)
廿三日 当春、知頭・八東では稀有の大雪で、多くの獣類を捕獲した。
(中略)
同(二月八日) 当春の大雪以来大いに炭の価格があがり、今も炭一貫目(約3.75キログラム)の代金が50文である。

 史料2では、2メートルを越える積雪による家屋の倒壊、吹雪による行き倒れといった直接的な被害や、積雪のために年末年始の挨拶を延期するといった影響が読み取れます。また積雪とは異なりますが、湖山池が凍り船が通行できないという交通面での支障が生じました。史料3には、大雪で餌が探せなくなったためか、智頭・八東で多くの獣類(イノシシなど)が捕獲された他、燃料の炭の価格が上昇したと書かれています。

 「因府年表」において大雪被害について最も詳しく書かれているのが、文政12(1829)年1月~2月の大雪です(注4)。前年末から降り続いた雪は、正月に入って六尺(180センチ)の大雪となります。鳥取城下や街道筋では除雪が行われますが、道路の左右や雪捨場に集められた雪は、「断崖に異ならず」、「屏風をたてたような」、「その高さは山のようだ」などと表現されるような状況となりました。当時大雪の様子を描いた絵画等は残っていませんが、明治35(1902)年に5尺3寸(約160センチ)の大雪となった時の写真が絵葉書となって発行されており(図1)、 そこから江戸時代の大雪の様子を推測することができます。

鳥取市未曾有の大雪の写真
(図1)絵葉書「明治三十五年鳥取市未曾有ノ大雪」(鳥取市歴史博物館蔵)

 図1では、智頭街道の奥に見える久松山は黒く写っていることから、降雪が治まってしばらくしてから撮影された写真と思われますが、道の両側には雪が積み上がり、商店の庇(ひさし)に届く程の高さとなっています。また街道には雪山の間の小道を縫うように歩く人々の姿が見えます。

 これほどの大雪となれば、様々な面で影響が見られました。「因府年表」によると、文政12年1月3日の夜に鳥取城下の新蔵付近(現在の鳥取敬愛高校付近)で起こった火事では、深い雪に隔てられて大きな被害はなかったようですが、近隣の者も火事に気づかず、火事の際に出動すべき役人も鎮火の後に出てきたという状況でした。漁業面では、海上の波が激しいのに加え、湖山池が凍って魚がとれないため、魚類が払底(ふってい)し、1月14日になって40日ぶりに魚を売る声が聞こえるようになったということです。鳥取藩の儀式という点では、1月5日に予定されていた藩主の大雲院への参詣は取りやめになり、1月12日に亡くなった前藩主の実母の葬儀も2月に入ってから行われるといった影響がありました。「因府年表」にはこの他、「この大雪が3月の節句までに消えるかどうか」ということを賭けて儲けようとする商人まで出たが、結局雪は3月になっても消えなかった、というエピソードを載せています。当時の人々にとっても、この雪は大きな関心事であったのでしょう。

おわりに

 江戸時代に生きた人々も、大雪による物価上昇や行事の延期など、いろいろな面で影響を受けていました。ここに挙げた史料はいずれも鳥取藩士の手になる書物ですので、民衆の生活をどの程度反映しているかという点では限界がありますが、当時の大雪の様子を教えてくれます。

(注1)「因府録」巻之第一(『鳥取県史』第6巻、鳥取県、1974年)P.2より現代語訳。

(注2)「因府年表」(『鳥取県史』第7巻、鳥取県、1976年)P.268~269より現代語訳。

(注3)前掲「因府年表」p887より現代語訳。

(注4)前掲「因府年表」p1006~1009。

(渡邉仁美)

資料紹介【第10回】

地震の件照会(旧大山村役場史料:鳥取県立公文書館蔵)

地震の件照会写真

 1943(昭和18)年9月10日に発生した鳥取地震の被害について、米子地方気象台が旧大山村役場へ3日後に照会をかけています。壁の亀裂、墓石・灯籠の倒壊、地割れ、地盤沈下・隆起、破損橋梁、崖崩れ、電柱倒壊、全壊半壊建物、死者などいずれも「ナシ」と報告されています。

県史編さん室のスタッフ紹介

 2014(平成26)年4月1日、県史編さん室に新たなメンバーが加わりました。

非常勤 舛井 暁代(ますい あきよ)

 4月から7月までの短期間ですが、県史編さん室で、主に新聞記事の項目とりをさせていただきます。少しでも皆様のお役にたてる様に頑張りたいと思います。

活動日誌:2014(平成26)年2月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)
4日
遺物の検討(鳥取県教育文化財団美和調査事務所、湯村)。
8日
史料調査(神戸市、渡邉・青目)。
11日
韓国旧正月行事(綱引き)調査(~16日、韓国ソウル市・全羅北道井邑市、樫村)。
12日
遺物借用(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
13日
出前講座(河原町中央公民館、岡村)。
14日
遺物返却(鳥取県立博物館、湯村)。
資料調査(境港市史編纂室、前田)。
16日
資料調査(~18日、東京国立博物館、湯村)。
17日
資料調査(~18日、東京大学史料編纂所、前田)。
19日
県史にかかる打合せ(鳥取大学、岡村)。
20日
ブックレットに関する打合せ(鳥取県立博物館、前田)。
25日
資料調査(~26日、米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
26日
鳥取市文化財審議会(鳥取市役所第2庁舎、樫村)。
27日
資料調査(~28日、上淀白鳳の丘展示館、湯村)。
資料調査(倉吉千刃)調査(倉吉市、樫村)。

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編集後記

 今年、鳥取の冬は、雪もとても少なく晴れた日が多かったと思います。雪かきの回数も少なく、通勤、通学は楽でしたが、それはそれで異常気象の前触れではないかと不安に感じることもあります。さて今回の記事は、江戸時代、鳥取の大雪についてです。また資料紹介は、1943(昭和18)年9月10日に発生した鳥取地震について記された資料です。東日本大震災以降、災害について関心が高まると共に、歴史資料と対峙しても以前より一層、災害関係の資料に目が止まるようになってきていることのあらわれかもしれません。時間の経過とともに、このような意識と関心が薄れないことが、重要なのではないでしょうか。

(樫村)

  

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