はじめに
鳥取藩医の小泉友賢が1688年頃に編纂した『因幡民談記』には、「八上郡弓河内村 北村六郎左衞門所蔵」として、以下の文書が掲載されています。
これは、「羽柴秀吉禁制」(以下「禁制」と略す)と呼ばれるもので、羽柴秀吉が鳥取城兵糧攻めの前年にあたる天正8年(1580)10月に八上郡弓河内郷(現鳥取市河原町)に対して与えたものです(注1)。
今回は、この史料をもとに、戦国時代の因幡地域の合戦と民衆との関わりについて考えてみたいと思います。
「羽柴秀吉禁制」の内容について
はじめに、この「禁制」の内容についてみていきましょう。
史料の大意は以下のとおりです。
- このたび当国(因幡)において、織田に対する一揆が起こったが、当郷(弓河内)については、織田方に忠節を尽くして一揆に荷担しなかった。ついては、今後、軍勢の乱暴狼藉や放火がないことを約束する。
- その褒美として、年貢その他の税については、亀井茲矩が定めたもの以外は徴収しない。
- 同じく褒美として、末代まで国役を免除する。なお、ますます忠節を尽くすのであれば、恩賞は重ねて与えるつもりである。
ここからは、天正8年10月頃に因幡国内で織田に対する一揆が起こっていること、弓河内郷は織田方に忠節を尽くして一揆に参加しなかったこと、その褒美として秀吉が同郷に対する軍勢の乱暴狼藉・放火の禁止や税負担の軽減を約束していること、などを読み取ることができます。
「禁制」が出された背景
では、この「禁制」はどのような状況下で出されたものなのでしょうか。
天正8年春、黒田官兵衛らの働きにより播磨(兵庫県南部)を平定した秀吉は、1万人の軍勢を率いて但馬(兵庫県北部)へ侵攻しました。そして、短期間で但馬を制圧すると、5月に因幡国内へ入り、一気に鳥取城下に迫ります。鳥取城兵糧攻めの前年に展開された、いわゆる「第一次因幡攻め」と呼ばれるものです(注2)。
秀吉軍は、鳥取城の山下の家々や市場を焼き払うとともに、土塁や堀を構えて鳥取城を攻撃しました。その一方で、若桜鬼ヶ城・私部城・用瀬城・生山城・鹿野城・吉岡城・岩常城といった因幡国内の7つの城を攻略しています (注3)。これらの城はいずれも因幡国内の主要な交通路上にあった城で、これにより鳥取城に向かう陸路は封鎖され、補給路は絶たれていきます。同時に、これらの城を押さえることは、因幡一国を統治する上での地域支配拠点の確保という意味もありました。
因幡国内関係略図
このような秀吉軍の攻撃を受け、同年6月、鳥取城主山名豊国は秀吉に降伏し、鳥取城は秀吉の手に落ちました。因幡を平定した秀吉は、同月中に姫路城へ帰還しています。
しかし、鳥取城をめぐる戦いはこれで終わったわけではありませんでした。同年9月、毛利方の吉川元春の軍勢が東伯耆の合戦に勝利し、因幡国境付近まで迫ってくると、鳥取城では山名豊国の重臣であった森下道誉や中村春続が豊国を追放し、鳥取城は再び毛利方に味方します。この知らせを受けて、吉川元春はすぐさま5~600人の兵を援軍として鳥取城に派遣しました(注4)。
同じ頃、因幡国内では織田に対する一揆が勃発しました(注5)。毛利の勢力が迫る中で、毛利に味方しようとする村々が蜂起したものと思われます。秀吉が「因州でこのたび一揆が蜂起した。参加した在々(村々)は成敗のため悉く放火する」と述べていることや(注6)、亀井茲矩に宛てた書状の中で「忠節の在所(郷村)を整理し直し、来年春、因幡に攻め込んだ際に、百姓たちの忠・不忠を糺明する」と述べていることから(注7)、秀吉はこのとき反織田一揆に加わった村や百姓には厳しい態度で臨んだものと考えられます。
このような中、弓河内郷は織田方に忠節を尽くし、一揆に加担しませんでした。冒頭の「禁制」はこのような情勢の中で出されたものと思われます。
弓河内郷が一揆に加担しなかった理由
では、なぜ弓河内郷は一揆に加わらなかったのでしょうか。
これについて、倉恒康一氏は、以下のような興味深い指摘をしています(注8)。
江戸時代初期にこの「禁制」を所持していた弓河内村の北村六郎左衞門の先祖は、戦国時代を通じて代々弓河内郷の有力者でした。特に六郎左衞門の祖母は旧鳥取城主であった武田高信の重臣である西郷因幡守の娘であったと『因幡民談記』は記しています。武田一族は秀吉の因幡攻めにおいて一貫して秀吉方として活動しており、西郷氏もそれに従っていたものと推察されます。
そのような武田氏や西郷氏の動向が、西郷氏と姻戚関係にある北村氏に影響を与え、北村氏を指導者とする弓河内郷の意志決定につながったのではないか、ということです。
極めて説得力に富む指摘であるといえるでしょう。
村が平和や安全を手に入れるには
戦国時代、戦線地域に置かれていた郷村は、どのように平和や安全を確保しようとしたのでしょうか。
禁制は掟書(おきてがき)・定書(さだめがき)とも言われ、実際は木札によって掲示されることが多かったことから制札(せいさつ)・高札(こうさつ)とも呼ばれました。北関東では「カバイの御印判」と言ったりもしました(注9)。いずれも軍勢の乱暴狼藉や放火等を禁止したもので、いわば武将たちが戦線地域の村や寺社に対して平和や安全を保障したものと解することができます。
弓河内郷に対する「禁制」は、一揆に加担しなかった同郷の忠節を賞して秀吉が与えたものですが、峰岸純夫氏によれば、戦国時代の禁制の多くは、村や寺社からの要請に応じて下付されるもので、多くの場合、村側が「礼銭(判銭)」と呼ばれる銭貨を支払って獲得していたことが明らかにされています(注10)。いわば、金銭を出して平和や安全を買うという論理が戦国社会に存在していたことがわかります。
戦国時代、対立する両勢力の狭間に置かれた地域は、兵火に見舞われる危険に常に晒されていました。ひとたび合戦が起こると、これら戦線地域の村は、軍勢による乱暴狼藉や苅田(注11)、放火といった戦禍を被り、生産基盤や生活基盤は容赦なく破壊されていきました。戦線地域の村々にとって、戦争の被害を避け、自分たちの生命や財産や生活を守るということは、極めて重要な問題だったのです。
軍勢の侵攻から村を守る禁制の獲得は、敵対する両勢力に年貢を半分ずつ納めて両属関係を取り結ぶ「半納(はんのう)」と並んで(注12)、戦線下で自分たちの生命や生活基盤を守る手段として極めて有効な方法であったと考えられます。
このような禁制の事例は、天正8・9年の秀吉の因幡攻めの際にもいくつか確認できます。
例えば、天正8年5月には、智頭郡山方郷(現八頭郡智頭町)、同郡用瀬郷(現鳥取市用瀬町)、高草郡布施南北(同市布勢周辺)に対して秀吉の禁制が出されています。また、天正9年7月には、弓河内村に対して改めて禁制が下されています(注13)。
これらは、いずれも秀吉の因幡侵攻の時期にあたっており、軍勢の通り道にあたる地域や戦場に近い地域が、戦禍を免れるために、軍事的協力を約束し、あるいは礼銭を差し出して禁制を獲得することで自分たちの生命や生活を守ろうとしたものと考えられます。
おわりに
戦国末期、吉川経家が「日本二ッ之御弓矢堺」と称したように、鳥取城やその周辺地域は、織田と毛利という二大勢力の対立・抗争の狭間に置かれました。
この時期、因幡国内では、武士・民衆を問わず、多くの人々が戦争に巻き込まれました。「鳥取の渇(かつ)え殺し」とも呼ばれた天正9年(1581)の秀吉の兵糧攻めでは、多数の武士や民衆が鳥取城に立て籠もり、飢えに苦しみながら戦っていたことがよく知られています。
その一方で、生死をかけた厳しい選択を迫られていたのは、鳥取城内の人々だけではありませんでした。因幡国内各地の村々においても、人々は自分たちの生命や生活基盤を守るために、ギリギリの意志決定を強いられていたと考えられます。秀吉に抵抗した但馬国の小代地域(兵庫県美方郡香美町)の一揆が、秀吉軍によって徹底的に弾圧されたように(注14)、両軍いずれに属するかは村の命運をかけた極めて重要な選択でもありました。
その中で、弓河内郷は、毛利の勢力が接近する状況下にあっても一貫して織田に味方し、国内で勃発した反織田一揆にも参加せず、秀吉から「禁制」を獲得することに成功して、自分たちの生命や生活基盤を守ることができたのではないかと思われます。
秀吉の因幡攻めといえば、ややもすれば鳥取城の兵糧攻めに重きが置かれがちですが、鳥取城以外の地域でも、多くの人々が戦乱の世をたくましく生き抜こうとしていたのです。
(注1) 『鳥取県の地名』(平凡社)によれば、戦国期の弓河内は近世の村域より広く、湯谷村以西の曵田川流域を指していたとある。
(注2)鳥取県史ブックレット1『織田vs毛利―鳥取をめぐる攻防―』(2007年)参照
(注3)(天正8年)6月19日羽柴秀吉書状写(「利生護国寺文書」)
(注4)(天正8年)9月26日吉川元春書状写(「藩中諸家古文書纂」十)
(注5)天正8年の因幡国の一揆を取りあげた論考には、尾下成敏「天正九年六月二十五日付羽柴秀吉軍律掟書考」(『史林』97巻3号 2014年)がある。
(注6)(天正8年)9月25日羽柴秀吉書状(「反町文書」)
(注7)(天正8年)12月8日羽柴秀吉書状(「牧家文書」)
(注8)倉恒康一「毛利・織田戦争と因幡国地域社会」(鳥取地域史研究会 2008年1月月例会報告)
(注9)峰岸純夫「制札と東国戦国社会」(『中世災害・戦乱の社会史』2001年)
(注10)峰岸純夫「戦国時代の制札とその機能」(同上)
(注11)収穫前の稲を刈り取って奪うこと。このほかに稲や麦を薙ぎ倒す稲薙(いねなぎ)、麦薙(むぎなぎ)などもあった。
(注12)半納については、秋山伸隆「戦国大名領国の『境目』と『半納』」(『戦国大名毛利氏の研究』1998年)が詳しい
(注13)いずれも『因幡民談記』所収文書
(注14)(天正9年)7月4日羽柴秀吉書状(「正木直彦所蔵文書」)
*本稿作成にあたっては、倉恒康一氏(古代中世部会委員)より多くの御教示をいただきました。記して御礼申し上げます。
(岡村吉彦)
1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
3日
史料調査(鳥取市史編さん室、岡村)。
4日
民具調査(北栄町歴史民俗資料館亀谷収蔵庫、樫村)。
6日
遺跡返却及び借用(鳥取県立博物館、湯村)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
10日
銅鐸の事前調査(倉吉博物館、湯村)。
12日
遺物借用(北栄町教育委員会、湯村)。
民具調査(北栄町歴史民俗資料館亀谷収蔵庫、樫村)。
13日
部会の事前協議(鳥取大学、湯村)。
16日
17日
民俗編に関する協議(米子市、樫村)。
19日
民俗(狩猟)調査(日野町三谷、樫村)。
26日
民具調査(境港市海と暮らしの史料館、樫村)。
27日
遺物返却(鳥取県立博物館、湯村)。
出前講座(とりぎん文化会館第4会議室、岡村)。
史料調査報告会(伯耆町溝口分庁舎、渡邉)。
民俗・民具(狩猟)調査(日野町山村開発センター、樫村)。
30日
史料検討会(公文書館会議室、岡村)。
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