第101回県史だより

目次

舞鶴海軍通信隊中北條分遣隊について

はじめに

 毎年8月は、あらためて戦争や平和について考える一つの契機となっています。この分野の研究者も毎年この時期が近づくと、おしなべてメディア各社からの問合せに追われるシーズンとなるようです。私もつい先日、とある戦争遺跡についての特集をテレビで視聴し、心に感じ入るものがありました。

 さて、鳥取県東伯郡北栄町にも昭和10年代に海軍の通信基地が存在し、その遺跡が現在も残っていることはご存じでしょうか?これについては『新修北条町史(2005年刊行)』に、聴き取りに基づいた基地配備の様子や施設の残存状況などの情報が記されています。しかし、それ以上のことについては、機密を帯びた任務の性格もあってかはっきりとせず、残念ながら情報が豊富でない状況にあります。

 今回は、この基地のことついて今一度さらに調査を試み、わかったことを紹介してみようと思います。

海軍通信隊とは(設置の目的・任務)

 「海軍通信隊」とは、1941(昭和16)年6月に従前の「海軍無線電信所」を改称して成立した、海軍における「有線及ビ無線通信ニ関スルコトヲ掌ル」機関です(注1)(『海軍通信隊令』第一条)。『海軍無線電信所規則』には、海軍内の軍事通信を主目的に、有線通信が困難あるいは無線通信が有利であったりする場合のための施設として設置(第一条)とあり、さらに特例ある場合や救難の時の対応(第三条)、他通信の傍受(第五条)などを任務とする、とあります。

 海軍の例規類からは改称時に任務の変更があった形跡は見当らず、「通信隊」は「無線電信所」と目的・任務は基本的に同じだったと思われます。但し、全国に通信隊・分遣隊がどれほど配置されていたかは不明ですが、管轄する海域や傍受対象地域が各隊によって異なっていました。また、後述しますが、昭和14年頃に海軍全体の通信業務への力の注ぎ方が変化していて、それ以前と以後では業務の質や量がかなり違っていたようです。

舞鶴海軍通信隊中北條分遣隊の設置について

 さて、海軍が通信基地を建設するにあたり、なぜ北条の地が選ばれたのでしょうか? 『新修北条町史』に「舞鶴につながる日本海沿岸で(中略)選ばれた」とあるほかは、理由を明言した資料等は見つかりません。ですが、『海軍無線通信所条例』第三条に「海軍無線通信所ハ其ノ所在海軍区ヲ管スル鎮守府ノ所管」とあり、そもそもここを所管した舞鶴鎮守府の任務が「日本海一帯とそれにつらなる沿岸を防御する」ことにあった(注2)ので、1.舞鶴との中継連絡に適当な地点であったこと、2.日本海を睨(にら)み、通信業務に好適な地であったこと、の2つが理由として当たると考えられます。後述の隊業務の内容は、正にそのことを明確に示していると思います。また、実際に現地に行くと、海岸砂丘の微高地で付近に通信を遮(さえぎ)る山や構造物がない絶好の地理であったであろうことが瞭然(りょうぜん)と認識できます。

 次に、この中北條分遣隊が設置されたのはいつ頃のことだったのでしょうか? 『北條町誌(1974年刊行)』は「(昭和)十五年(中略)国坂に舞鶴海軍通信隊の分遣隊が駐とんしたのもこの頃」(345頁)とし、また『新修北条町史』は「昭和10年ごろ用地買収、同12年ごろには兵舎が建った」(651頁)としていて、実は両者で示す設立時期が異なっています。

 これについては、昭和14年海軍省発行の『海軍無線電信所一覧表(昭和十二年五月末現在)』(注3)に中北条の部隊がないこと、また東京の昭和館がまとめた『海軍部隊略歴』(注4)の資料に「昭和十二年六月一日編成 志楽 上杉 新発田 中北条に分遣隊」とあることから、後者が正しく、昭和12年6月の設置であったことが確認できました。この頃前後して、海軍軍令部第10課内に対ソ作業班が新設され、また大和田通信所(注5)も建設が開始されていますから、中央の動きや時代背景ともシンクロしてきます。

分遣隊の敷地、人員・規模について

 分遣隊の敷地は3つの地区に点在していたことが明らかになっています。現在も1.国坂浜部落(本部・関連施設跡)、2.旧北条中学校跡地(大地下壕跡)、3.江北の農地(大規模通信塔三基)にその形跡が残ります。

 このうち、終戦直後に隊本部の敷地を買い取ることになった当時の中北条村助役山本涼三氏のご子息である山本久夫さんは、「本所と江北の間にトロッコを直線に走らせ、土地造成をしていた」と証言されています(注6)。(紙幅の都合上省略しますが、今回山本さんからは、この他にもこの基地に設けられていた地下電線やコンクリ柱、鉄条網等施設に関する様々な証言をいただきました。)

分遣隊本部入口の門柱写真
分遣隊本部入口の門柱

 人員については、「アジア歴史資料センター」で昭和20年8月の中北条分遣隊の通信作業報告書(注7)が公開されています。これによると、同年7月末時点で分隊長勝部少尉以下55名が配置されていたことがわかります。『新修北条町史』では、「三十人程度」とされていますが、おそらくこれは時期により人員が変化しているため起こった差異だと考えられます。山本さんによると、年をおって「建物は増築されていき、人もだんだん増えていった」そうです。確かに、中央の大和田に配置された電信員も当初は9名からスタートしており、同時期の北条に30名が配置されていたとは考えられません。

 隊長については、「一戸建て官舎があった。」「転勤族で、だいたい一年といなかった。」(山本さん)そうです。また、昭和12年の海軍通信隊令の規程と昭和20年の勝部隊長の階級を照合すると、隊長の階級は設立当初と終戦で変化がなかったことがわかります。

分遣隊の使命・業務

 前述の報告書『昭和20年8月通信諜報作業月報』からは、この時点で1.航空機との管制通信、2.無線傍受、3.方位測定業務の3つを業務としていたことがわかります。宣伝謀略については、これを行った形跡はありません。

 また、同書からは、分遣隊が沿海州配備のソ連軍部隊及び航空部隊の通信の状況を詳しく把握・記述し、その多寡から細かくソ連軍の動きと勢力変化を分析・報告していることがわかります。これらのことから、少なくともこの時期の中北條分遣隊の役割や存在の意味が対ソ戦略にあったことは間違いないといえます。

 海軍内では、「1939(昭和14年)頃から敵信傍受による通信情報の必要性が台頭してきたが(中略)要員は皆無に近い状況」(注8)だったので、そこを起点として傍受の制度組織方法が急速整備されていきました。そして方位測定も「連合通信隊(中略)司令部の設置をみる頃から方位測定の価値、重要性が台頭し、有効な活動を成し得る形態」(注9)となり、昭和13年頃から組織・要員の充実が図られています。これに伴い、中北條でも昭和14年に、新発田分遣隊(新潟県)とともに対ソ専門の傍受及び方位測定班が設置されています(注10)

 これらのことを総合すると、中北條分遣隊は昭和14年頃以降、業務と人員が連動して増加・充実していき、最終的に55名規模で上記の三業務を行う組織に拡大していったもの、と考えられます。

 余談になりますが、1943(昭和18)年に中北條分遣隊の職員が大和田通信所での方位測定器取扱い講習に参加しています。中央で機械や技術の更新があると、大和田通信所を通じてその伝達を受けたという関係があったことを示しています。

地域と分遣隊

 このことについて山本さんは「当時、地域の人は隊任務などの情報については一切知らされなかった。」と証言しています。昭和12年の『海軍通信隊職員服務規程』には「秘密ヲ厳守シ常ニ通信隊付近ヲ警戒シ特ニ許可ヲ得タルモノ外一切隊内ニ立チイラシムベカラズ」とあり、ここ北条でも隊業務のことは一切、近隣に洩らされることはありませんでした。

 しかし、「国坂は分遣隊を歓迎していた。畑で作った作物を買ってくれていた。」(山本さん)とのことで、さりとて「迷惑施設」でもなかったようです。山本さん自身も、「昭和18年当時の会田隊長の息子さんと一緒に通学」をするなど、任務のことは別としつつも地域とは一定の関わりをもち、完全隔絶といったイメージの存在ではなかったようです。

 また、山本さんによると「一度本所の壕に入ったことがあるが、当時は珍しい蛍光灯を利用しており、中は機械類がズラーッと並んでいた。」、「食糧調達で苦労していた。主食は配給があったろうが、副食は自ら調達していた。」とのことでした。軍の施設で設備には恵まれていたものの、食糧だけは地域ともども厳しい状況であったようです。また、『昭和20年8月通信諜報作業月報』を見る限り、酒保(注11)などはなかったようです。

本部跡に残る地下壕入口写真
本部跡に残る地下壕入口

終戦と戦後の分遣隊跡

 山本さんによると、終戦後すぐに分遣隊は撤収していったようです。日本海新聞によれば11月14日にはGHQによる接収が行われています。その時地元では「役場からの連絡で子供達は外出禁止でした。進駐軍に相当警戒感があった。」「敷地はまもなく村ヘ譲られることになった。」(山本さん)とのことです。

 本部周辺敷地は、この地区出身であった中北条村助役の山本涼三氏が後の管理を担当することとなりました。「当時村には様々な事業の計画があり、道路直線化もその一つで、二十数件が絡む用地買収を山本(涼三)が苦労して調整に当たっていた。代替地を求める地主には自らの畑も切り売った。広大な隊の敷地も代替用地になり、最終的には便所跡とかプール跡とか、コンクリート基礎ばかりで誰も手を出さないところを山本が代替地として取得した」(山本さん)そうです。また、敷地には南北に延びる壕があり、終戦直後しばらくは引揚げ家族と思われる2家族がその壕に住んでいたそうです。現在も壕のほか門柱・貯水跡等が残っています。このほか敷地西側には隊長官舎と二棟長屋の隊員官舎がありましたが、現在は住宅が建ち当時の跡は全くありません。

 旧北条中学校跡地(田井地区)では、隊施設がそのまま昭和24年より学校に利用されました。その後学校改編によりミシン会社の工場となりましたがそれも撤退し、現在は更地になっています。ここには本部よりも大型の地下壕が残っていますが、外観した限りではただの防空壕というより、堅牢な耐強受信壕だったのではないかと推測します。

 最後に、江北の農地では、現在アンテナ土台跡が3セット残っています。山本さんの話では、「アンテナ本体は杉材で、4mの材木5本を鉄材で縛って束ね、これをさらに5本繋ぎ、約20mの高さだったように思う」という、巨大アンテナでした。「戦後、杉材は分解され入札にかけられた。杉は建材として優れているためいい値段で売れた。」(山本さん)とのことで、今は水田が広がる中にポツンと砂地の台地が残っている様子に当時の面影を残すのみです。

おわりに

 以上、不十分な調査ではありますが、中北條分遣隊の様子はよりクリアにはなったのではないかと思います。私は最も若い戦争体験者からみてもすでに孫世代にあたりますが、地元の遺跡に立つことで、私なりに戦争のことを身近に感じたり、考えたりすることができました。

 鳥取の人間として遺跡は今後も残ってほしい、とは強く願うのですが、一方で現代に生きる人の利便を度外視してまでその必要があるかは難しいところです。また、得てしてこうした「負の歴史」については、必ずしも一切全てを明らかにする必要はないものもあります。しかし大切なことは、私たちのような世代も過去から真摯に学んで戦争の実態をあらためて認識すること、そしてそういう機会・時間をつとめてつくっていくことだと思っています。その材料・きっかけとして新県史が役に立つことがあれば、これ以上の幸せはありません。

(注1)但し、施設によっては「望楼」と改称されているものもある。(「アジア歴史史料センター」海軍一般史料「昭和12年 達 完」)。

(注2)舞鶴市史編さん委員会『舞鶴市史 通史編(下)』P.687。

(注3)海軍大臣官房『海軍制度沿革 巻3』1939(国立国会図書館蔵)。

(注4)旧海軍省及び旧厚生省援護局の各資料を元に昭和館が整理・作成した資料の集成。

(注5)現在の埼玉県新座市・東京都清瀬市にまたがる地に建設された、当時の海軍における主要な通信基地。

(注6)平成26年6月2日、鳥取県立公文書館において山本久夫氏に聴取りを行う。当時山本氏は小学生だった。

(注7)『昭和20年8月通信諜報作業月報』国立公文書館蔵。

(注8)有賀傅『日本陸海軍の情報機構とその活動』近代文藝社1994 P.318。

(注9)有賀前掲(注8)P.320。

(注10)有賀前掲(注8)P.313。

(注11)兵営内や艦船内で日用品や飲食物等を販売した売店に類するもの。

(前田孝行)

活動日誌:2014(平成26)年8月

2日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
7日
資料調査(鳥取県立図書館、前田)。
民具調査(倉吉農業高校、樫村)。
9日
資料調査(現代部会)(鳥取県立図書館、前田)。
14日
資料調査(県議会図書館・閲覧室、前田)。
16日
史料調査(岩国徴古館、岡村)。
17日
史料調査(吉川史料館、岡村)。
22日
資料調査(やまびこ館、前田)。
26日
民俗資料に関する協議(文化庁調査官)(倉吉市他、樫村)。
27日
民俗資料に関する協議(倉吉博物館・二十世紀梨記念館、樫村)。

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編集後記

 今回の記事は、現在の北栄町にあった軍事施設についてです。このような軍事遺跡については、鳥取県内で歴史資料として積極的に活用されてきたとはいえないと思いますが、年々、先の戦争が遠い過去になっていく中でその価値が見直されてきています。かく言う私も、県内資料館調査において収蔵される軍服や慰問袋、千人針という一種のお守りについて資料として、やはり積極的に検討してきませんでした。これについてはやはり反省が必要であると感じました。

(樫村)

  

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