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秀吉の鳥取城攻めと黒田官兵衛

はじめに

 戦国時代の武将黒田官兵衛(1546~1604年)を主人公とした今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ終盤を迎えました。毎回の放送を楽しみにしていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

 ドラマの中盤では、官兵衛が軍師として華やかに活躍した中国攻めも詳しく取り上げられました。尼子勝久や山中鹿之助といった山陰の武将たちが登場したのもこの頃でした。

 その一方で、天正10年(1582)の備中高松城の水攻めが大きく取り上げられたのに対し、その前年の鳥取城の兵糧攻めについては、番組の中でほとんど扱われず残念だったという感想をお持ちの方もいらっしゃるようです。

 これは、官兵衛の事蹟を示す代表的な資料である『黒田家譜』(注1)の中に、彼が鳥取城攻めに従軍したという記述がみられず、彼が因幡へ来たかどうかわからないという理由もあったと思われます(注2)

 では、実際、官兵衛は因幡へやって来たのでしょうか。今回はこの点について考えてみたいと思います。

山縣長茂覚書の記述

 『吉川家文書』の中に「山縣長茂覚書」という史料があります(注3)。これは吉川氏の家臣であった山縣長茂が寛永21年(1644)に吉川氏に提出した覚書で、特に天正9年(1581)の秀吉の鳥取城攻めについて詳しく記されています。

 長茂は吉川経家とともに鳥取城に籠城し、経家が降伏の際に秀吉に宛てた書状を清書した人物です。城将の最期を眼前で見届けた武将の覚書であり、当時の史料と照らし合わせても内容の信憑性は高いと言われています。特に経家の切腹にかかる記述は真に迫るものがあります。

 この中で長茂は、鳥取城を包囲した秀吉軍の様子について、次のように記しています。

(天正9年)七月十二日未明に、筑前守殿(羽柴秀吉)猛勢を引卒し、鳥取東北の高山へ打上がり、本陣に定められ、田間の流尾に堀尾茂介・一柳市介陣取り、田間は町より外に袋川水堀の如くこれ有り、此川を前に置き向かい、浅野矢兵衛・中村孫平次・小寺官兵衛・蜂須加彦右衛門、鳥取・丸山の間、雁金山は宮部善乗坊・掛屋駿河守、丸山は小一郎殿(羽柴秀長)一手衆、海上は荒木平大夫数百艘をもって警固、更に透間なく陣取…

 この記述から、秀吉軍が鳥取城を多数の軍勢で包囲するとともに、海上にも多くの船を配置していたことが窺えます。

 このときの秀吉軍の中に「小寺官兵衛」の名が見えますが、これは黒田官兵衛のことを指しています。記述に従えば、官兵衛は秀吉軍の一員として従軍し、当時山下を流れていた袋川の近くに陣を構えていたことになります。60年以上前の記憶とはいえ、長茂が実際に見た光景を書き起こしたのであれば、官兵衛が着陣していた可能性は高いのかもしれません。

秋里左衛門申状の記述

 鳥取藩医の小泉友賢(1622~91)が編纂した『因幡民談記』(1688年頃成立)には、友賢が書写した中世文書の数々が収められています。その中に「秋里左衛門申状」という史料があります。

 秋里氏はもと山名配下でその後毛利氏に仕えた因幡国人です。友賢によれば、これは池田光仲家臣秋里玄省が所持していたものとあります。秋里氏は関ヶ原の戦い後に萩へ移って行きますが、因幡に残った一族が池田家に仕えたものと考えられます。

 内容から毛利方に提出されたものの控えと思われ、朝鮮出兵(1592~98)の記述のあと、関ヶ原の戦い(1600)に関する記述がないことから、朝鮮から帰国して間もない時期に書かれたものと推察されます。この中で秋里左衛門は次のように記しています。

鳥取羽柴(秀吉)殿御取懸の時、七月十三日に黒田勘兵衛陣所夜討を式部殿様(吉川経家)仰せ付けられ候ところ、敵取合、此方各々足をみたし候処、私返し申渡合、矢手鑓手をかふむり候事、委細小野太郎右衛門方存ぜられ候へとも通申され候間、大草玄蕃殿存知あるべき事、

 これによれば、吉川経家に命じられて、秋里左衛門が天正9年7月13日に黒田官兵衛の陣所に夜襲をかけたとあります。事実かどうかを当時の史料で確認することは困難ですが、文中に登場する大草玄蕃は先述の山縣長茂覚書にも籠城衆として名が確認できる人物です。このことから、全く信憑性がないわけではないと思われます。

 7月13日は秀吉がいわゆる本陣山に着陣した日の翌日にあたります。この夜襲が事実であれば、官兵衛は秀吉軍の一員として因幡へ進軍し、13日には陣を構えていたことになります。

 経家が秋里左衛門に命じて官兵衛の陣所を攻撃したのも、毛利軍が官兵衛をこの戦いにおける秀吉軍のキーマンと考えていたからかも知れません。

『因幡民談記』の記述

 先述した『因幡民談記』の「国主の部」に次のような記述があります。

羽柴筑前守秀吉公は…天正九年辛巳六月五日、播州姫路の城を立て、同国戸倉山の節所を越へ、当国八東郡へ乱入し給う、相伴の勇士には、舍弟羽柴小一郎秀長、姪御万、浅野弥兵衛尉長政、杉原七郎左衛門家次、黒田官兵衛孝高、峰須賀彦右衞門家政、木下助兵衛尉、宮部善祥坊、桑山修理進、前野少右衛門、神子田半左衛門、添田甚兵衛、垣屋播磨守、同隱岐守、同駿河守、木下半太夫…

 ここにも秀吉軍の一員として黒田官兵衛が登場します。この記述をもとに秀吉の鳥取城包囲陣を描いた絵が「絵図の部」に収録されています(下図)。あくまで想像図であり、三層の天守閣などは必ずしも当時の姿を反映したものではありませんが、山縣長茂覚書の記述と重なる部分も多く、全くの創作ではないと思われます。

 特に、鳥取城を挟んで秀吉の本陣と対極の位置に官兵衛の陣所が描かれているのは興味深いところです。推測の域を出るものではありませんが、鳥取城の兵糧攻めは、秀吉と官兵衛を東西それぞれの要として展開されていたのかも知れません。

秀吉軍の鳥取城包囲図の写真
秀吉軍の鳥取城包囲図(鳥取県立博物館所蔵『因幡民談記』)

おわりに

 今回は秀吉の鳥取城攻めと黒田官兵衛の関わりを示す史料を取り上げてみました。ここに紹介した3点はいずれも鳥取城攻めの後に書かれた覚書や著述であるため、史実かどうかを見極めるには、資料の性格や信憑性が問われなければなりませんが、官兵衛が天正9年の秀吉の鳥取城攻めに従軍し、城の近くに陣を構えていた可能性は高いと思われます。

 なお、この兵糧攻めに関しては、官兵衛が事前に因幡国中の米を高値で買い取るように秀吉に進言したという説もあります。史料的な裏付けはできませんが、彼が先を見通した戦略を立てることに秀でた武将と評される人物であったことは間違いないと思います。

 戦国から天下統一に向かう時代を生きた軍師黒田官兵衛。彼がこの乱世の中で鳥取城をめぐる織田と毛利の戦いをどのように位置づけていたのか、今後明らかにしていきたいテーマの1つです。

(注1)福岡藩三代藩主の黒田光之が、学者である貝原益軒(1630~1714)に命じて編纂したもの。元禄元年(1688)完成。

(注2)『黒田家譜』に官兵衛が鳥取城攻めに参加した記述が見られない理由の1つとして、天正9年段階で官兵衛は淡路・阿波の平定に向かっていたという記述があることがあげられる。この『黒田家譜』の記述をもとに、秀吉の淡路・阿波出兵は天正9年のことであり、鳥取城攻めの合間を縫って展開されたというのが通説であった。しかし、近年、尾下成敏氏や藤井譲治氏によって、淡路への進出は天正8年、阿波出兵は天正10年であるとの批判が唱えられている。尾下成敏「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵」(『ヒストリア』214、2009年)、藤井譲治「阿波出兵をめぐる羽柴秀吉書状の年代比定」(『織豊期研究』16、2014年)。

(注3)『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書』石見吉川家文書151号。

(岡村吉彦)

資料紹介【第12回】

牛の舌祭(鳥取市気高町八束水姫路地区)

2009(平成21)年12月16日撮影

餅を作る子供の写真 
餅の写真 

 この地区の姫路神社の祭神、スサノオノミコトがオロチを退治して疲れて帰ってくるのが丑の日の丑の刻であることから、申の日の丑の刻までの一週間静かに休息してもらう行事を「おいみさん」といいます。この期間、かつて姫路地区では農作業も慎み、大きな物音や入浴も禁じたといいます。

 この7日目の未の日には、牛の舌餅が作られます。これは神官と小学生の男子が、午後5時頃から神社に縁の深いF家で行います。F家が準備した餅を神官が藁で切って、子どもたちが長さ20センチほどの青竹の筒を転がしながら、牛の舌の形(長さ25センチ、幅10センチ)にします。完成した牛の舌餅は、祭神が目を覚ます翌朝の申の日の午前10時、神社で行われる「牛の舌餅(新嘗祭、霜月祭)」に奉納されます。大人より神に近い存在とされる子どもが重要な役割を果たす貴重な伝承です。

活動日誌:2014(平成26)年10月

2日
巡回講座(民俗ブックレット13)に関する協議(鳥取市内、樫村)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
5日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
16日
民俗部会事前協議(米子市、樫村)。
18日
史料調査(島根県立図書館、岡村)。
20日
民俗部会(公文書館会議室)。
25日
倉吉学講座講師(倉吉市成徳公民館、樫村)。
27日
近世部会(公文書館会議室)。
資料調査(倉吉市役所、前田)。
28日
史料調査(鳥取県立博物館、渡邉)。
29日
考古部会(公文書館会議室)。
近代現代合同部会(公文書館会議室)。
資料調査(公文書館閲覧室、前田)。
30日
資料調査(公文書館会議室、前田)。

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編集後記

 私もNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、鳥取城の兵糧攻めがどのように登場するか楽しみにしていた一人です。ほとんどあつかわれず残念ですが、製作する側としては参考となる信憑性が高い記録、つまり史料が少ないことがそのシーンを描くことを難しくしたのでしょう。しかし今回のように史料を集め、総合的に分析することで、ドラマには出てこなかった鳥取攻めの場面が想像できたのではないでしょうか。人の成功、失敗から学ぶためにも史料は欠かせないものと改めて感じました。

(樫村)

  

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