はじめに
戦後70年の節目にあたる今年は、県内各地で様々な戦争関連の展示が行われました(注1)。その締めくくりとなる行事が12月5日から鳥取県立博物館で開催される「戦後70年鳥取と戦争」です。約3000点を超える戦争関連資料の中から郷土部隊、銃後の県民生活、戦時下の子どもの姿を伝える展示が行われるほか、近年の調査で明らかとなった戦争遺跡や旧軍用地、戦争記念碑も初めて展示解説されます。当館作成の満蒙開拓青少年義勇軍と学童疎開に関するパネルも一画を占めていますので、ぜひご来場ください。
さて1945(昭和20)年8月15日の「終戦」を境に県民の米英に対する見方はどう変わったのでしょう。占領軍をどのような気持ちで受け入れていったのでしょうか。新聞記事をたどってみたいと思います。
「鬼畜米英」と戦後の不安
1941(昭和16)年12月8日のハワイ真珠湾攻撃をきっかけに日本は米英と戦闘状態に入りました。以来国民の戦意高揚のため「鬼畜米英」をスローガンに米英への敵愾心を抱かせるためのプロパガンダ(宣伝)や思想統制が行われました。鳥取県内でも鳥取市の智頭街道や若桜街道で米英国旗を道いっぱいに書いて踏んだり(注2)、倉吉駅前(旧倉吉線打吹駅のこと)に六尺四方(たたみ二畳分)のルーズベルトやチャーチルの顔を描いて踏みつけるなどのイベントが行われました(注3)。米や英という文字の左横に「犭」(けものへん)をつけた活字の使用も奨励されました(注4)。
1945(昭和20)年8月15日の玉音放送で敗戦が伝えられても、一部の人々は戦争継続を訴えました。気高郡吉岡村(現鳥取市吉岡温泉町)では翼壮青年団(青壮年による大政翼賛会の外部団体)の幹部を中心に継続抗戦を呼びかける建白書が作成され村内各戸に配布されました(注5)。
多くの人々はそれまで徹底抗戦を掲げて戦ってきた相手が上陸してくることへの不安を抱いていました。「連合軍が智頭に来て農家の土蔵の中の食糧を封印した」「境港に上陸して婦女子にいたずらをしている」「鳥取市に進駐してくるのは重慶軍(中国の国民政府軍)だ」などというデマが流れました(注6)。このようなデマは、戦争中に植え付けられた米英に対する敵愾心が県民のあいだに深く浸透していたことを物語っています。
進駐に対する心構え
そのような不安を払拭するため、鳥取市では1945(昭和20)年9月4日に連合軍の進駐に対する心得を発表しています。そこでは、進駐は日本政府との折衝の結果行われるもので決して略奪などは起きない、進駐後の治安維持は従来どおり日本の警察憲兵があたるから心配ない、デマに惑わされず冷静に落ち着いて行動せよと、秩序ある冷静な行動を呼びかけました。仮に進駐が行われた場合には、外国人に個人で直接接触することは避けること、また万一の場合に備えて町内部落会に英語の話せる者を用意することも提案されています(注7)。8日には県の特高課(反体制活動を取り締まる戦前警察の一部門)も、進駐は特定地域以外には広がらないこと、軍人の中には進駐記念の品を持ち帰ろうとするものがあること、暗くなってからの婦女子の外出は避けること、刀剣類を携行しないことなど注意喚起しました(注8)。
20日の県警察部長報告によれば、京浜地区から進駐が拡大し日米の戦力差や原子爆弾の威力の大きさが国民に理解されていくなかで、戦争継続はもはや不可能で「負ケタノダカラ仕方ガ無イ」という諦めムードが県内に広がる一方、東伯郡八橋町では占領軍による徴発を見越して養鶏業者が廃業したり、女性のワンピース姿が自粛されモンペ姿が復活する状況もあるなど、依然として婦女子の貞操と農産物や家畜の略奪・供出を恐れる雰囲気がありました(注9)。
進駐軍の受入れ準備
こうしたなか進駐軍の受入準備は着々と進みます。9月13日広島の中国統監府の協議会に森本県警察課長が出席し、県庁内に「県連絡本部分室」を設置。10月16日には「連合軍進駐協力隊動員要綱」を制定して特殊技能保持者を確保するとともに、一般労務要員として16才以上の男子で徒歩・自転車等で1時間半から2時間以内に参集可能な者を動員することを決定。その数は一日あたり鳥取市で5000人、米子市で6500人という大がかりなものでした(注10)。
進駐を1週間後に控えた鳥取市では、10月23日午後1時から市役所会議室に町内会長・部落会長を集め、市長をトップとする「連合軍進駐事務連絡部」を設置し、「動員要綱」を実行に移すため市民による進駐軍協力隊の編成を決定します。出動命令があれば深夜でも24時間以内に集合するなど、全市一丸となって万全の態勢がとられました(注11)。
進駐軍土産の生産
9月8日の注意喚起に「軍人の中には進駐記念の品を持ち帰ろうとするものがある」とありましたが、近畿地方統監府で行われた英米在住経験者による懇談会では、兵士が好むものとして掛け図・掛け軸・美人画などの室内装飾品、仏像・仏具、日本刀が挙げられています(注12)。
こうした土産品ニーズをとらえた県商工経済会は、進駐軍への土産物販売を契機として鳥取が誇る民工芸品を広く外国人向けに生産販売する郷土特産品再建振興策を提案しました(注13)。10月14日の市の会議でも進駐軍に対する土産品として、各家庭から衣類、帯、人形その他の物品を希望価格を附して提出させ、適当な価格を設定して提供するバザーのようなことも検討されました。
おわりに
1945(昭和20)年10月29日アメリカ第6軍第10軍団第24師団第21聯隊のオスボーネ少佐以下197名の将兵が特別列車で鳥取駅に到着します。一行は出迎えの人々に対して終始朗らかな笑みをみせます。記事は「鳥取市民の話」として以下の声を紹介(注14)。戦中の敵愾心、終戦直後の不安は一掃されていきました。
ひそかに待ってゐた者を迎へる気持です。終戦直後抱いてゐたような危惧の念はありません。今朝も早く起きて町内の人達と一緒に路面へ放置されてある物件を取り片付け入念に清掃しました。吾々としてはどこまでも賓客を迎へた心で接し協力を求められた時は進んで協力したいと思ひます
1952(昭和27)年4月28日サンフランシスコ講和条約が発効するまでの7年半余、日本本土は占領統治下に置かれました。鳥取県の占領下の暮らしについては、現在鳥取軍政隊の月例報告の分析が進んでいます。その報告は別の機会にお届けします。
GHQ将校と県、市の要人たち(昭和26年12月下旬頃、鳥取県立公文書館所蔵)
(注1)昭和20年7月大山口列車空襲や大山町沖輸送船永安丸の爆撃に関する米軍機ガンカメラや戦闘報告書(米子市立図書館)、風船爆弾の製造や特攻隊との関わり(鳥取市歴史博物館)、高城飛行場の設置経緯やチ号演習の全体像(倉吉博物館)、満蒙開拓青少年義勇軍と学童疎開(県立公文書館)など。
(注2)新鳥取県史手記編『孫や子に伝えたい戦争体験』下、38ページ
(注3)昭和18年3月3日付日本海新聞「戦意高揚・宿敵撃滅へ、倉吉町のうちてしやまむ運動」
(注4)『鳥取昭和史 新聞にみる世相』(松尾茂、1975年、昭和18年10月13日付日本海新聞記事より)
(注5) 鳥取県警察部長「継続抗戦ヲ主唱スル集団建白ニ関スル件」(『敗戦時全国治安情報』第7巻、1994年、日本図書センター、8ページ)
(注6)昭和20年8月19日付日本海新聞「冷静に判断したい『敵境港上陸』のデマ」
(注7) 昭和20年9月4日付日本海新聞「連合軍進駐にも度を失せぬ用意」
(注8) 昭和20年9月8日付日本海新聞「服装は地味にせよ/進駐米軍に対する態度」
(注9)鳥取県警察部長「聯合軍進駐を繞(めぐ)る民心の動向に関する件」(『資料日本現代史2 敗戦直後の政治と社会1』、1980年、大月書店、328ページ)
(注10)「連合軍の進駐と警察」(『鳥取県警察史』第1巻、1070ページ)
(注11)昭和20年10月24日付日本海新聞「進駐軍来鳥の場合/鳥取市で協力隊など編成」
(注12) 昭和20年9月10日付日本海新聞「進駐軍に接する場合は/下手な会話は大怪我のもと/女の変な洋装も軽蔑される」
(注13) 昭和20年10月14日付日本海新聞「民芸品など進駐軍のお土産に/併せて県下の産業再建」
(注14) 昭和20年10月30日付日本海新聞「進駐軍二百名が昨日鳥取入り/駅頭に沸く朗らかな爆笑」
(西村芳将)
1日
資料調査(~2日、島根県公文書センター、前田)。
3日
うぐい突き漁会場事前調査(気高町、樫村)。
4日
民俗・民具調査(鳥取市気高町、樫村)。
5日
資料調査(熊野神社・小松神社、岡村)。
6日
資料調査(山守神社、岡村)。
7日
資料調査(鳥取県立博物館、岡村)。
8日
資料調査(日南町・境港市、西村)。
9日
資料調査(やまびこ館、西村)。
15日
古墳測量の地権者協議及び現地確認(福本大塚古墳、岡村・湯村)。
16日
県史関係刊行物販売(ホテルニューオータニ鳥取、八幡・青目)。
21日
古墳測量の地元交渉(八頭町、湯村)。
22日
資料公開にかかる聞き取り(静岡県立図書館、岡村・西村)。
民俗部会事前協議(米子市、樫村)。
24日
資料調査・借用(熊野神社、岡村・八幡)。
資料検討会(公文書館会議室、西村)。
25日
資料調査(口佐治神社、岡村)。
資料調査(東郷町、西村)。
26日
27日
資料調査(~29日、国会図書館・防衛研究所、西村)。
28日
考古部会(公文書館会議室)。
29日
資料調査(三輪神社、岡村)。
30日
資料返却(北栄町教育委員会、湯村)。
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