はじめに
このたび古代中世部会では『新鳥取県史資料編 古代中世2 古記録編』(以下『古記録編』と略す)を刊行しました。この中には、県内の仏像・棟札・石造物等に記された銘文や、日記・縁起・軍記物といった記録・典籍に含まれる因幡・伯耆関係記事等、約520点の史料を収録しています。
本書を編さんするにあたって、特に力を入れたものの1つに、県内の神社に残る棟札(むなふだ)の調査があります。棟札とは木札に墨書された寺社の造営記録・修理記録で、そこには建造物の名称や造営年月日のほか、願主・神職・職人等の名が記されており、建造物の歴史を知る上で不可欠の史料です。平成24年に松江城が国宝に指定された際、建造時期を明らかにする決め手となったのが、松江神社で発見された2枚の棟札であったことは記憶に新しいところです。しかし、全国的にみても棟札の調査や研究はあまり進んでいるとは言えません。
今回は、棟札に記された内容をもとに、伯耆国における戦国武将の寺社造営と、そこから浮かび上がる地域の歴史について取りあげてみたいと思います。
尼子経久の神社造営と西伯耆支配
日野郡日南町印賀の楽々福神社旧蔵にかかる永正17年(1520)の棟札には、以下のような銘文が記されています(注1)。
「この地域には印賀・茶屋両村の霊廟社として楽々福大明神と印賀大明神がある。しかし干戈(かんか・戦争のこと)によって両社とも御神体が風雨にさらされる事態となっている。そのため新社殿を造営して御神徳を得るとともに家内繁昌・子孫繁昌を祈願するものである。
印賀村領主尼子経久、茶屋村領主亀井秀綱、代官古市信久
永正十七年庚辰十月十三日 」
ここにみえる尼子経久は出雲国富田城の城主で、一代で尼子氏の栄華を築いた人物としてよく知られています。また亀井秀綱は尼子氏の重臣の1人で経久・晴久二代に仕えた人物です。
ここからは、永正17年以前に日野郡で合戦があり、印賀・茶屋両村の神社が戦禍に巻き込まれたこと、それを尼子経久と亀井秀綱が再興したことがわかります。16世紀初頭の伯耆国内では、守護山名氏の内紛に端を発し、国内外の武士たちを巻き込んだ「国総劇」と呼ばれる大規模な戦争が繰り広げられていました(注2)。米子市の宇田川神社や三輪神社が所蔵する永正13年(1516)・同15年(1518)の棟札にも「当社破滅」「当社大破」のため社殿を造営したと記されています(注3)。西伯耆の神社に永正年間の年号を持つ棟札が多く残されているのも、この「国総劇」と関係があると考えられます(注4)。
特に注目したいのは、尼子経久と亀井秀綱について、それぞれ「印賀村領主」「茶屋村領主」と記されている点です。これまで、尼子氏の伯耆支配については、大永4年(1524)5月に尼子経久が大軍を率いて伯耆へ攻め入り、短期間のうちに国内一円を支配したという『伯耆民談記』の記述が通説となっていました。しかし近年、尼子氏の伯耆進出はそのように短期間で行われたのではなく、永正10年(1513)以前から長期的かつ段階的に行われていたことが一次史料により明らかにされています(注5)。この棟札の内容は、まさにそのような近年の説を裏付けるもので、すでに永正年間には尼子氏の支配の手が日野郡内に及んでいたこと、また村単位で直接的な支配が行われていたことを示しています。
尼子晴久による大山寺造営について
来年、大山は開山1300年を迎えます。大山寺には国重要文化財である阿弥陀如来坐像をはじめ、数々の仏像・宝物や重要な古文書が所蔵されています。その1つとして、洞明院には中世の棟札の内容を書き写した「諸堂舎棟札写」(以下「棟札写」と略す)という史料があります。
阿弥陀如来坐像が安置されている大山寺阿弥陀堂(国重要文化財)
大山寺洞明院所蔵「諸堂舎棟札写」
この史料をもとに、尼子氏の大山寺造営についてみていきたいと思います。
天文23年(1554)3月24日の夜、大山寺は大規模な火災に見舞われ、神殿・房舎・仏像等悉く焼失しました(注6)。「棟札写」には、その原因について「不思議の火災があった」と記されています。
この事態を受けて、尼子晴久はただちに大山寺の復興に取りかかりました。晴久は尼子経久の孫にあたり、経久の跡を継いで出雲尼子家の当主になった人物です。その対応は早く、被災から1ヶ月後には大山寺を再興するよう命じています。
(1)建造物の造営について
晴久による大山寺の造営は次のような手順で行われました。まず造営を司る作事奉行には、出雲大社の造営にも関わった尼子重臣の多賀久幸が命じられました。また寺院側の奉行には西楽院澄禅・経悟院朝円・大楽房慶仁の3人が就いています。彼らが造営の中心的役割を担っていたと考えられます。
造営作業は4月24日に山から木を伐採する杣取(そまどり)と釿始(ちょうなはじめ)の儀式から始まり、9月下旬に本社の神殿が完成しました。その御神体である大智明権現は晴久の嫡男である佐々木三郎四郎(後の尼子義久)が願主となって6月16日から制作が始まり、9月20日に神殿に安置されました。これを見て、参詣した多くの人々が感涙を流したと「棟札写」に記されています。
翌天文24(弘治元)年(1556)には4月から10月にかけて拝殿や楼門が建立され、10月28日に遷宮が行われました。建造物の建立は以後も続けられ、翌弘治2年(1557)には末社である下山護法神が完成し、9月に遷宮が行われています(注7)。
(2)仏像の制作と京都七条仏師
一方、仏像や神輿については、晴久の次男千童子丸や三男足童子丸といった一族のほか、立原幸隆・宇山誠明ら尼子氏の重臣が施主となって制作されました。
このとき仏像制作を手がけたのが、京都七条仏師の康秀と康正でした。康秀と康正は親子であり、定朝を祖とする京都七条の慶派の流れを引く仏師です(注8)。特に康正は東寺大仏師職として多くの仏像を世に送り出しており、安土桃山時代を代表する仏師として有名な人物です。
「本朝大仏師正統系図」(注9)によれば、康秀は天文24年に伯耆大山権現や地蔵立像、不動立像などを手がけたと記されています。
なぜ京都七条の仏師である康秀らが大山寺の仏像制作にあたったのでしょうか。
関連する史料の1つとして、鳥取県立博物館所蔵の「岩屋寺快円日記」には次のような記事が載っています(注10)。
天文8年(1539)5月、尼子経久は出雲国横田庄にある岩屋寺の四天王を造るため、京都七条の康秀を富田城下へ呼び寄せました。これを受けて、康秀は因幡国布施の仙林寺の仁王像を制作した後に出雲国へ赴き、7月末まで滞在して岩屋寺の仏像を制作しています。つまり、康秀は少なくとも15年前に尼子氏と面識があったことがわかります。このような尼子氏と康秀とのつながりが前提となって、尼子氏が造営する大山寺の仏像制作に康秀が指名されたのかも知れません。参考までに、康秀は永禄4年(1561)に因幡国曳田郷の正法寺の本尊である千手観音座像も制作しています(注11)。
おわりに
今回は尼子氏を例に戦国武将による寺社造営の一端について取り上げました。このほかにも、鳥取県内に残された棟札には、戦国武将や在地領主たちが手がけた寺社造営に関する記録が多く残されています。『古記録編』には県内外の50の寺社が所有する113点の棟札を掲載していますが、このうち約半数は今回初めて活字化される史料です。造営された年代や歴史的背景、造営に関わった人々の営みなどを丁寧に読み解いていくと、新しい歴史がみえてくるかも知れません。
鳥取県は中世以前の古文書が全国的にも少ないと言われますが、棟札のみならず、経典類や経筒、金石文など「古文書以外」の史料に目を向けると、まだまだ数多くの史料が県内に存在しています。『古記録編』はそのような史料を網羅的に収録しています。本書が多くの方々に活用され、地域の歴史を学ぶための一助となることを願ってやみません。
(注1)『古記録編』125頁
(注2)『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(2010年)22頁
(注3)『古記録編』75頁、82頁
(注4)このほか、三所神社(日南町)、根雨神社(日野町)、神田神社(同)の棟札にも永正年間に造営した記録がみられる。
(注5)『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(2010年)22~23頁
(注6)『古記録編』34頁、112頁
(注7)同上124頁
(注8) 根立研介『日本中世の仏師と社会』(2006年、塙書房)、清水真澄著『中世彫刻史の研究』(1988年、有隣堂)
(注9) 田中喜作「本朝大仏師正統系図並末流」(『美術研究』11号、1932年)
(注10)『古記録編』573頁
(注11)同上21頁
(岡村吉彦)
2017(平成29)年4月1日、県史編さん室に新たなメンバーが加わりました。
専門員 西川徹(にしかわ とおる)
担当:考古
この度の異動により、県史編さん室に配属になりました。今までは教育委員会に所属して、主に遺跡の発掘調査に従事してきました。担当が「考古」なので、今までの経験も踏まえて新鳥取県史の充実に努めていきたいと考えています。よろしくお願いします。
3日
資料調査(淀江傘伝承館、樫村)。
9日
資料調査(牛飼育関係)(~10日、隠岐の島町、樫村)。
16日
近代社会編資料調査(公文書館、西村)。
18日
資料調査(泊歴史民俗資料館、樫村)。
23日
資料調査(おぐら屋(岩美町岩井)、樫村)。
24日
木地師関係資料調査(真庭市川上歴史民俗資料館、樫村)。
近世部会史料検討会 (公文書館会議室、八幡)。
25日
資料調査(泊歴史民俗資料館、樫村)。
28日
本年度刊行事業の振り返り(公文書館会議室)。
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