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目次

織田信長の山陰出陣計画と秀吉

はじめに

 天正9年(1581)、羽柴秀吉が2万人の大軍を率いて鳥取城を攻撃しました。この戦いは「秀吉の兵糧攻め」「鳥取城渇え殺し」とも呼ばれ、戦国末期における因幡国最大の戦いとしてよく知られています(注1)

 この秀吉の鳥取城攻めに織田信長の出陣計画があったことをご存じでしょうか。

 近年、鳥取城の発掘調査や文献研究の著しい進展により、鳥取城の東方に築かれたいわゆる「太閤ヶ平」は、織田信長の本陣用として築かれた可能性が高いこと、天正9年に織田信長自身が因幡へ出陣する計画があったことが明らかにされています(注2)

 今回は、この織田信長の因幡への出陣計画を柱として、秀吉の鳥取城攻めの新たな一面に迫ってみたいと思います。

鳥取城遠景写真
鳥取城遠景

天正8年の因幡情勢と秀吉

 天正8年5月、播磨・但馬両国を平定した秀吉は因幡国へ攻め込みました。鳥取城近辺に着陣した秀吉は、山名豊国を降伏させて鳥取城を攻略するとともに、若桜鬼ヶ城や鹿野城など因幡国内の主要な城を手中に収めていきます。このとき、伯耆国に近い鹿野城には秀吉に投降した因幡国衆らの人質が置かれ、尼子遺臣である亀井茲矩が城番として派遣されました。

 しかし、やがて毛利軍の反撃が始まり、8月には毛利方の吉川元春が東伯耆へ攻め入り、織田方に寝返った南条元続の本拠地である羽衣石城を落城寸前まで追い詰めました。因幡国内でも、反織田一揆が起こったり、鳥取城内でも毛利氏に味方した重臣たちが秀吉に降伏した城主山名豊国を追放するなど、毛利勢力が徐々に息を吹き返していきます。

 これに対して秀吉は、すぐに鹿野城の亀井茲矩に使者を送り、鹿野城や東伯耆の支援のために1万人余りの兵を派遣すること、敵が退散しなければ秀吉自身も再度因幡へ出陣して吉川勢と一戦交える覚悟であること、それに備えて但馬から兵糧米1000石を鹿野城へ海上輸送する予定であること等を伝えています。

 このとき秀吉が亀井茲矩に送った書状には、「その方(茲矩)は鹿野城留守居として普請などを油断なく行うように」(注3)「自分(秀吉)も着陣する予定なので、そうなったら、その方(茲矩)は一手に羽衣石へ進軍するように」(注4)と記されていました。

 このことから、秀吉は鹿野城を山陰方面における対毛利戦の重要な軍事拠点と位置づけていたことがわかります。秀吉は自分が進軍することを前提に、城番である亀井茲矩に対して城の普請と兵糧の備蓄を命じていました。茲矩は秀吉が着陣するまでの「留守居(るすい:留守番のこと)」であり、秀吉が着陣した後は羽衣石城の南条氏の支援へ向かう予定であったと考えられます。

 結局、兵糧米は運び込まれず、秀吉の出陣も実現しませんでしたが、織田方の兵が多数東伯耆へ送り込まれ、山陰における織田と毛利の戦いは長期化していきます。

織田信長の因幡出陣計画

 山陰方面で毛利勢力が勢力を回復する中、天正8年冬に織田信長の山陰出陣計画が持ち上がります。これを受けて、秀吉は安土で越年するのをやめ、姫路城に戻ってその準備に取りかかりました。同年12月に亀井茲矩に宛てた書状の中で「来春は(織田信長の)御出馬以前に我らがまず動くつもりだ」と述べているように(注5)、秀吉は信長の出陣前に因幡へ出陣する予定でした。「来二月三月には我ら相働き」とあることから(注6)、2~3月頃の出陣を念頭に置いていたと考えられます。羽衣石城の南条元続に対しても「誓紙」をもって出陣を伝えていることから、秀吉はこの時期の出陣に強い決意を持っていたことがわかります。

 秀吉は、茲矩に対して「此方御座所」の普請を急ぐよう命じました。この「此方御座所」について、これまでは信長の本陣と解釈されてきました。しかし当時の因幡を取り巻く政治情勢等を考えるならば、これは秀吉の陣所を指している可能性が高いと考えられます(注7)

 こうして、信長の山陰出陣計画を受け、秀吉の2度目の因幡出陣は一層現実味を帯びてきました。その時期は天正9年2~3月頃であり、秀吉は信長の出陣前に因幡へ進軍し、信長を迎える準備をするとともに、鹿野城を陣所として東伯耆の吉川軍に備える計画であったことがわかります。

天正9年の秀吉の因幡出陣と鳥取城の陣城群

 このように、天正9年2~3月頃の出陣に強い意欲を示していた秀吉ですが、実際は6月まで実現しませんでした。その理由について、秀吉は「因幡の秀吉方の者たちから播種作業の時期の進軍は控えてほしいという要請があったため」と述べています(注8)。この秀吉の言い分がどこまで真実を伝えているかは不明ですが、当時、因幡国内は前年の戦乱で田地が荒らされた影響もあって一円的に不作の状態でした。春先の播種作業の時期に軍勢に乱入されては同年も収穫が困難になるのは目に見えており、それを危惧する声があったことは想定できます。

 一方、信長の出陣もかなりずれ込んでいました。織田方に加わった元鳥取城主の山名豊国が、天正9年5月に「鳥取城は今攻め込めば必ず勝利する」と信長に進言したのに対し、信長は「梅雨が明けるまでは出陣しない」と答えています(注9)。このような信長の意向も秀吉の出陣時期が遅れた理由の1つであったと考えられます。

 信長の出陣時期が明確にならないまま、天正9年6月に秀吉は因幡へ出陣しました。7月12日に鳥取城東方の山へ着陣した秀吉は直ちに陣城の構築に取りかかります。このとき秀吉は、亀井茲矩に対して、鹿野城周辺の村々から鍬を調達して届けるよう命じました(注10)。この鍬は陣城の普請に関わるものと考えられます。

 また、秀吉は信長に対して「因幡表に8月まで滞在し、味方の城々へ兵糧を入れて信長を迎える準備を調えた後、伯耆方面へ進軍する」と伝えています(注11)。信長の本陣と想定される「太閤ヶ平」の陣城はこのときに築城されたものと考えられます。また、秀吉の鳥取城周辺の滞在は8月頃までの予定であり、信長を迎える準備をした後は鹿野~東伯耆方面へ進軍する計画であったことがわかります。

 同時に秀吉は鳥取城西側の袋川周辺にも30あまりの陣城を構築するように命じました。この陣城群は町屋が立ち並ぶような構造であり、堀や塀・柵を巡らせて各陣城を隙間なくつないで行き来ができるようにするなど、長期戦を視野に入れた強固な構造となっていました(注12)。これは鳥取城を包囲するだけでなく、背後から毛利の援軍が攻めてきて、いわゆる「後詰めの戦い」となった場合も想定していたと考えられます。その西側には千代川が流れていますが、この千代川も毛利軍が攻めてきたときの天然の堀の役割を果たしていました。鳥取城周辺の秀吉の陣城群は、鳥取城を包囲するだけでなく、信長の出陣や毛利軍との戦いを想定し、長期戦にも耐えうるものであったことがわかります。

秀吉の鳥取城包囲図(因幡民談記)
秀吉の鳥取城包囲図(因幡民談記)

毛利・織田・秀吉の動き

 こうして天正9年8月頃には鳥取城周辺の陣城群は整備されました。あとは信長の到着を待つだけとなり、秀吉は信長到着後にただちに鹿野城に陣替えして東伯耆の毛利軍に備える予定でした。「梅雨明けまでは出陣しない」という信長の意向だったため、秀吉は早ければ7~8月頃の出陣を想定して早期に陣城を構築したものと考えられます

 では、信長の因幡への出陣は実現したのでしょうか。8~9月に信長は秀吉と蜂須賀正勝に宛てて書状を出していますが、そこには「毛利軍が鳥取城の援軍に現れたならば、丹波・丹後・摂津の軍勢を因幡に派遣し、自分も出陣する」「万一、毛利・小早川の援軍が因幡へ進軍したなら、即時に我々も出馬する」と記されていました(注13)

 このことから、信長の出陣が「毛利氏の援軍が鳥取城の救援に現れた場合」に限られていることがわかります。「梅雨明けまでは出陣しない」と明言しつつも、出陣時期が明確になっていなかった信長の動きですが、出された結論は毛利本隊が鳥取城の救援に現れた場合に限って出陣するというものでした(注14)

 では、毛利軍は鳥取城の救援に現れたのでしょうか。秀吉が因幡に着陣した天正9年6~8月頃の毛利軍の動きをみると、織田方の宇喜多直家の病状が悪化していたこともあり、美作方面における戦いは毛利軍が優勢でした。

 しかし、毛利軍が因幡へ進軍することはありませんでした。その理由は、1つには美作国内の宇喜多氏の軍勢を突破できなかったことによります。もう1つには、毛利輝元が「(吉川)元春が、因幡と伯耆の境に陣替えしたので、たとえ鳥取が落城しても、雲伯方面は大丈夫だろう」と述べているように(注15)、9月末に吉川軍が東伯耆まで進出したため、そちらの支援を優先したことがあげられます。いずれにしても、毛利軍が因幡へ進軍することはなく、そのため信長の因幡出陣は実現しませんでした。

 では、秀吉はどう動いたのでしょうか。先述したように秀吉は7月に因幡へ着陣し、8月までに鳥取城周辺の陣城群を構築していきます。その一方で、鹿野城の救援と東伯耆方面への進軍ルートを確保するために西方面に軍を進めています。

 このとき、秀吉の前に立ちはだかったのが湖山池西側に勢力を持つ吉岡氏でした。吉岡氏の本拠である吉岡の地は、鳥取と鹿野を結ぶ交通路上にあり、秀吉にとっては鹿野・伯耆方面への進軍ルートを確保する上でも掌握不可欠の場所でした。

 秀吉は7月19日、同27日、9月7日と3度にわたって吉岡氏を攻撃しますが、いずれも敗北し、大きな打撃を被って退却しています(注16)。特に7月27日の戦いでは吉岡近辺の秀吉方の陣が撃破されています。先述したように、秀吉は8月まで因幡に滞在し、その後鹿野城へ陣替えする予定でしたが、その進軍ルートは9月になっても確保できなかったと考えられます。

 結局、秀吉が鹿野・東伯耆方面へ兵を進めることができたのは、鳥取城が落城した2日後の10月27日のことでした。秀吉が「吉岡城が自焼(自分で城に火を付けること)して退却したので、明日27日に南条氏の支援のために出陣する」と述べていることからも(注17)、吉岡氏の存在が秀吉にとって大きな「壁」となっていたことがわかります。

 こうして、秀吉の因幡攻めは当初計画とおりに進みませんでした。秀吉は信長の山陰出陣計画をふまえ、7月に因幡へ進軍し、鳥取城周辺に多数の陣城を築いて、信長を迎える準備を整えた後、鹿野城へ陣替えして東伯耆の救援に向かうという計画でした。そのため亀井茲矩に自分の陣所の整備と兵糧の備蓄を命じていました。

 しかし、8月以降、信長の出陣は毛利本隊の動向次第となりました。結局、毛利本隊は美作へ兵を進めたものの、因幡へは進軍せず、そのため信長の因幡出陣も実現しませんでした。さらに秀吉自身も吉岡氏に阻まれて、鹿野方面への進軍ルートを確保することができませんでした。

 こうして、結果的に秀吉は鳥取城東方の「太閤ヶ平」の陣所にとどまることを余儀なくされていきます。最終的に兵糧攻めという形で鳥取城を攻略することに成功し、因幡一円の支配権を回復することはできましたが、山陰における対毛利戦において、それ以上の戦果を得ることができなかったというのが実態だったのではないでしょうか。

おわりに

 今回は、織田信長の山陰出陣計画を柱として、秀吉の因幡攻めについて再考してみました。少なくとも、秀吉の因幡攻めが織田信長の出陣計画との関わりの中で展開されていたこと、鳥取城の兵糧攻めだけを目的としたものではなかったこと、また鹿野城を拠点に東伯耆方面へ兵を進める計画であったこと等は確認できたのではないかと思います。このような視点で捉えると、秀吉の鳥取城攻めもまた違った見方ができるのではないでしょうか。

 1つの史料はさまざまな情報を含んでいます。それを引き出しストーリーを組み立てていくのは歴史学の醍醐味であり面白さでもあります。1つ1つの史料に向かって問いかけ、その語りかけてくる声に耳を傾け、学び、考えたその先に、新たな「創造」の営みが待っているのです。

(注1)詳しくは『鳥取県史ブックレット1 織田vs毛利―鳥取城をめぐる攻防―』(2007、鳥取県)参照。

(注2)西尾孝昌氏「鳥取城跡の城郭遺構確認調査について」(『鳥取城調査研究年報』第2号、2009年)、谷本進氏「因幡鳥取城攻めと太閤ヶ平本陣」(『織豊期研究』第15号、2013年)、尾下成敏氏「天正九年六月二十五日付羽柴秀吉軍律掟考」(『史林』97巻3号、2014年)など。

(注3)『新鳥取県史 資料編 古代中世1 古文書編』(2015、鳥取県)1262号文書。以下『新鳥取県史』と略し、その文書番号を記す。

(注4)『新鳥取県史』1251号。

(注5)『新鳥取県史』1305号。

(注6)『新鳥取県史』1263号。

(注7)この「此方御座所」の解釈については、岡村吉彦「織田信長の山陰出陣計画と秀吉の動向」(『鳥取地域史研究』第18号、2016年)で詳述している。

(注8)『新鳥取県史』1357号。

(注9)『新鳥取県史』1355号。

(注10)『新鳥取県史』1394号、1398号、1403号。

(注11)『新鳥取県史』1381号、1399号。

(注12)『新鳥取県史』1422号、1430号。

(注13)『新鳥取県史』1432号、1441号。

(注14)このあたりの動きについては、注2尾下論文が詳しい。

(注15)『新鳥取県史』1474号。

(注16)『新鳥取県史』1401号、1402号、1416号、1442号。

(注17)『新鳥取県史』1471号。

(岡村吉彦)

活動日誌:2017(平成29)年8月

8日
資料調査(公文書館会議室)。
9日
資料調査(湯梨浜町中央公民館泊分館、樫村)。
10日
資料調査(岩美町岩井、樫村)。
17日
資料調査(公文書館会議室、西村)。
20日
資料返却(湯梨浜町、西村)。
21日
資料調査(公文書館会議室、西村)。
23日
資料調査(湯梨浜町中央公民館泊分館、樫村)。
24日
資料調査(岩美町岩井、樫村)。
25日
資料調査(農業試験場、樫村)。
26日
第3回占領期の鳥取を語る会(やまびこ館、西村)。

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編集後記

 9月末、鳥取市は朝晩が冷えるようになり、色付く木の葉も見られるようになりました。

 さて今回は織田信長、羽柴秀吉に関する記事です。天正9年(1581)の羽柴秀吉の鳥取城攻撃については、研究者ではなくてもわかりやすく研究者の基礎書籍ともなる『鳥取県史ブックレット1 織田vs毛利―鳥取城をめぐる攻防―』(2007)があります。その後、本文のとおり、鳥取城攻撃に関し、西尾孝昌氏(2009)、谷本進氏(2013)、尾下成敏氏(2014)の研究成果がありました。そして『新鳥取県史 資料編 古代中世1 古文書編』(2015)が刊行され、鳥取城攻撃に関するほとんどの史料が1冊として集積されました。今回は「ブックレット1」の執筆を担当した岡村吉彦県史編さん室長が、最新の研究成果、そして「古代中世1 古文書編」に掲載された史料を駆使して秀吉の鳥取城攻撃の新しい一面を紹介しました。このように県史の成果を活用し、鳥取に関する研究が広く展開されていくことを願っています。

(樫村)

  

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