はじめに
古代中世部会では、現在、『新鳥取県史資料編 古代中世2 古記録編』の編さんを進めています。この『古記録編』には、日記などの記録類や典籍類に加えて、鳥取県内に残る中世以前の造像銘(ぞうぞうめい)(注1) 、棟札(むなふだ)(注2) 、金石文(きんせきぶん)(注3)などの銘文資料を幅広く収録する予定であり、既刊の『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編』と併せて活用することで、因幡・伯耆に関する古代・中世の文字資料を総合的に捉えることが可能になります。
古文書に比べて、棟札・金石文などの銘文資料は、どちらかといえば、文書・記録の補助資料として位置付けられることが多く、研究もあまり進んでいないのが現状です。しかし、これらの銘文には、人々の宗教観や職人たちの活動など、古文書にはみられない貴重な歴史情報が多く含まれています。いわば「文書や記録以上に生きた情報を提供する史料」(注4)であり、活用次第でさまざまな歴史像を描き出すことができます。
そこで今回は、金石文に刻まれた銘文資料をもとに、主に寺社の梵鐘などの製造に携わった鋳物師(いもじ)に焦点を当て、中世の因幡・伯耆の職人の活動の一端を紹介してみたいと思います(注5)。
中世の因幡・伯耆の鋳物師
『国史大辞典』によれば、鋳物師とは「金属をとかし、諸種の型に入れて、武器や各種の像・鏡・鍋・釜などを作る工人」のことを指します。中世は産業の発展や鉄砲の普及等に伴い、金属製品の需要が高まった時代であり、鍛冶や鋳物師といった職人が各地で活躍していました。
中世の因幡・伯耆には、どのような鋳物師がいたのでしょうか。県史編さん室の調査によれば、因幡・伯耆に関係のある金工品のうち、中世以前の年号銘を持つもの(銘文のみ残るものも含む)は38点確認できます。このうち、職人の名が記されているものをあげると12点になります(表参照)。
この結果をもとに、因幡・伯耆の鋳物師についてみていきたいと思います。
表:金石文にみえる因幡・伯耆の鍛冶・鋳物師*所在地(旧郡)別に製造年の古い順に配列した。
|
和年 |
西暦 |
名称 |
所在地 |
鍛冶・鋳物師名 |
1 |
建武5 |
1338 |
旧松上大菩薩鐘 |
高草郡 |
十善大工 沙弥十阿弥陀仏
赤目大工 治部左衛門尉国政
用瀬大工 賀茂家守
大居大工 安部広泰 |
2 |
明応6 |
1497 |
旧仙林寺鐘 |
高草郡 |
大工 野坂住 藤原信重 |
3 |
永正2 |
1505 |
旧大永寺鰐口
(現大塚薬師堂蔵) |
高草郡 |
上原大工 藤原信重 |
4 |
康正1 |
1455 |
旧長砂村大日堂鰐口 |
八東郡 |
大工 藤原某 |
5 |
康正3 |
1457 |
旧小幡郷緑宮鐘
(現多宝寺蔵) |
八東郡 |
用瀬地下金屋大工 藤原重家 |
6 |
正安3 |
1301 |
旧長谷寺鐘
(現国英神社蔵) |
久米郡 |
大工 氷友末 |
7 |
永禄6 |
1563 |
旧伯耆国長谷山鐘
(現島根県清水寺蔵) |
久米郡? |
作者小鴨中金屋大工 九郎左衛門 |
8 |
天正2 |
1574 |
旧定光寺鐘 |
久米郡 |
彫刻 藤原正綱 |
9 |
承安2 |
1172 |
大山寺鉄製厨子銘 |
汗入郡 |
鋳造師 延暦寺僧西上 |
10 |
元応2 |
1320 |
鉄造聖観音像等光背 |
汗入郡 |
大工 道覚 |
11 |
天正19 |
1591 |
旧大山寺下山稲荷大明神鐘 |
汗入郡 |
鋳師 会見郡小松庄神主三上
采女正山本神主
大工 宗右衛門尉 |
12 |
明応6 |
1497 |
旧隠岐国元福寺鐘
(現島根県愛宕神社蔵) |
隠岐国 |
大工 因州野坂郷 藤原信重 |
藤原信重について
因幡の鋳物師として名前が確認できる人物の一人に藤原信重があります。はじめに彼の活動についてみていきたいと思います。
(1)布施仙林寺の梵鐘
鳥取市鹿野町の幸盛寺には、かつて1口の梵鐘(ぼんしょう)がありました。現存はしていませんが、『因幡民談記』によれば、もと高草郡布施の仙林寺にあった鐘で、近世初頭に鹿野城主亀井茲矩(これのり)が湖山池に沈んでいるのを発見し、鹿野の幸盛寺へ奉納したとあります。
この梵鐘の表面には次のような銘文が刻まれていました。
因州高草郡於布施仙林寺
一結衆
明応六年丁巳五月三日 願主 渡辺盛勝
俊盛
大工野坂住
藤原信重
この銘文によれば、この梵鐘は、渡辺盛勝・俊盛が願主となり、野坂在住の大工藤原信重が鋳造して、明応6年(1497)に布施仙林寺に寄進されたものであることがわかります。願主である渡辺盛勝については、『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』の延徳4年(1492)3月7日条に登場する「因州守護代渡辺」と同一人物か一族であると考えられています(注6)。
『国史大辞典』によれば、「大工」というのは中世においてはさまざまな手工業分野の職長を指しており、現在のように木材建築技術者を大工と呼ぶのは近世以降のことです。したがって、ここでの「大工」とは鋳物師の統率者のことを指しています。
また、野坂は現在の鳥取市内を流れる野坂川の上~中流域にあった野坂郷を指していると考えられます。建武5年(1338)の年号銘を持つ野坂郷の松上大菩薩の鐘銘に「十善大工沙弥十阿弥陀仏、赤目大工次郎左衛門尉国政」とみえますが、『因幡民談記』によれば、「十善」「赤目」は、いずれも野坂谷の地名であると記されています。このことからすでに14世紀前半には野坂川流域に鋳物師たちが居住していたことがわかります。おそらく中世の野坂郷は因幡有数の鋳物師集団の拠点であったものと考えられます。
以上のことから、藤原信重が髙草郡野坂郷内に居住する鋳物師であったこと、大工として鋳物師を統率する立場にあったこと、因幡の守護権力と関わりを持つ人物であった可能性があること等がわかります。
(2)野坂郷大永寺の鰐口
鳥取市大塚の薬師堂には、総径40cmの銅製の鰐口(わにくち)が現存しています。
鰐口とは神社や寺院の堂前に布で編んだ縄とともにつるされた円形の金属製の音具を指します。この薬師堂があった場所には、かつて12の坊舎を持つ大永寺(大円寺)と呼ばれる大寺院がありました。この鰐口は大永寺の根本堂にあったもので、明和年間(1764~72)に村人によって掘り出され、大永寺の跡地に建てられた薬師堂に奉納されました(注7)。
旧大永寺(現大塚薬師堂)の鰐口
鰐口の表面に刻まれた銘文には「永正二天乙丑八月十八日 上原大工藤原信重」とあります。このことから、この鰐口が永正2年(1505)に藤原信重によって鋳造されたものであること、彼が野坂郷内の上原(現鳥取市上原)に居住していたことがわかります。
(3)隠岐国源福寺の梵鐘
藤原信重の作品は因幡国以外でも確認できます。島根県大田市温泉津町の愛宕神社に現存する明応6年(1497)銘の梵鐘は、かつて隠岐国の源福寺が所蔵していました。源福寺は6坊を抱え、鎌倉時代に後鳥羽上皇が隠岐に流された際に行在所(あんざいしょ)となった寺院です。
この梵鐘に「願主源朝臣秀真筑後守 大工因州野坂住藤原信重」と刻まれています。このことから隠岐国の寺院の梵鐘を藤原信重が鋳造していることがわかります。願主の秀真は隠岐国の有力な在庁官人の系譜を引く村上一族であるとする説もあります(注8)。隠岐国の有力者が地元の寺院に寄贈した梵鐘を因幡国の鋳物師である藤原信重が手掛けていることは注目されます。
以上の事例から、藤原信重の人物像や活動が僅かながら浮かびあがってきます。彼は15世紀末から16世紀初頭にかけて活躍した因幡の鋳物師で、野坂川の上~中流域に位置する高草郡野坂郷の上原に居住していました。野坂郷は因幡における鋳物師集団の拠点であり、信重は大工として集団を統率する立場にある人物でした。彼が手掛けた鋳造品は梵鐘や鰐口などがあり、因幡国内のみならず他国からも依頼を受けて製作していたことがわかります。また、願主が守護代などの有力者であることや、寄進先である仙林寺・大永寺・源福寺がいずれも複数の寺坊や多数の堂舎を持つ寺院であることなどから、藤原信重が因幡の守護権力や大寺院と結びつきを持つ存在であったことも窺えます。
因幡・伯耆の鋳物師たち
このほかに、因幡・伯耆にはどのような鋳物師たちがいたのでしょうか。以下、いくつか紹介してみたいと思います。
(1)大工氷友末について
鳥取市河原町に鎮座する国英(くにふさ)神社に1口の梵鐘があります。銘文によれば、これはもと倉吉市の長谷寺の梵鐘として、正安3年(1301)に大工氷友末が鋳造したものであり、現在は県の文化財に指定されています。
関連資料が乏しいため、氷友末の人物像や活動について詳しく知ることは困難ですが、「真継文書」に含まれる嘉禎2年(1236)の蔵人所牒写には、20人の鋳物師の番頭の名が列記されており、その中に「氷貞仲、同則延、同清則」の名がみえます。網野善彦氏によれば、ここに登場する番頭の多くは、河内国を本拠とする河内鋳物師であるとされています(注9)。河内鋳物師は、12世紀以降、全国に製造技術を広めた鋳物師集団です。このことから、氷友末も河内鋳物師と何らかの関わりを持つ人物であった可能性もあります。
(2)智頭郡用瀬の鋳物師集団
八頭町船岡の多宝寺の梵鐘は、かつて八東郡小幡郷の緑御宮(現実取神社)に寄進されたもので、銘文によれば、康正3年(1457)に北村宗次が願主となり、用瀬金屋の大工藤原重家が鋳造したとあります。藤原重家については定かでありませんが、「金屋(かなや)」という地名は鋳物師などの金物業者が集まり住んだ所であると言われており(注10)、この金屋の鋳物師集団を率いた長であったと考えられます。用瀬の鋳物師については、先述した旧松上大菩薩鐘銘にも「用瀬大工 賀茂家守」とみえます。このことから髙草郡野坂郷だけでなく、智頭郡用瀬にも鋳物師集団がいたと考えられます(注11)。
(3)久米郡小鴨の鋳物師集団
では、伯耆国はどうでしょうか。島根県大田市の清水寺が所蔵する鰐口は、銘文によれば、永禄6年(1563)に伯耆国久米郡の南条宗影が願主となり、小鴨の中金屋の大工である九郎左衛門が鋳造して長谷山に寄進されたものであることがわかります。小鴨は倉吉市を流れる小鴨川の中流域に位置する小鴨郷のことであり、在庁官人の系譜を引き、有力国人であった小鴨氏の本拠でした。用瀬と同様に「金屋」とあることから、ここにも鋳物師集団がおり、某九郎左衞門が大工として統率していたと考えられます。
小鴨川の上流域や関金町を流れる矢送(やおくり)川の流域には、8~13世紀の製鉄遺跡が広がっています。また応永14年(1407)の長講堂領目録には、矢送川流域にあった皇室領の矢送荘の年貢として「鉄万挺」と記されています(注12)。このような鉄と地域との密接な関わりが、中世のこの地域の鋳物師集団の形成につながった可能性もあるのではないかと思います。
おわりに
今回は梵鐘や鰐口に刻まれた銘文を繙きながら、中世の因幡・伯耆の鋳物師の分布や活動の一端を紹介しました。
その結果、少なくとも髙草郡野坂郷、智頭郡用瀬、久米郡小鴨といった地域に鋳物師集団がいた可能性が高いこと、上原大工の藤原信重のように多様な活動を行っていた鋳物師がいたこと等を明らかにすることができました。関連資料をさらに深く読み解けば、まだまだ多くのことが解明されると思います。
今回は金工品を対象としましたが、各地に残る棟札や石造物に記された銘文にも興味深い内容が含まれています。先人たちが残してくれた1つ1つの資料を大切にしつつ、彼らの営みを可能な限り明らかにし、豊かな地域像の構築に役立てていただけるよう、引き続き調査研究に取り組んでいきたいと思います。
(注1)仏像の胎内や台座などに記された銘文のこと。
(注2)建造物の造営や修築の際に、願文(がんもん)や建築関係者、造営年月日などを書いて納める木札のこと。
(注3)梵鐘などの金工品や五輪塔などの石造物に刻まれた銘文のこと。
(注4)市村高男「戦国期番匠についての考察」(永原慶二編『大名領国を歩く』吉川弘文館、1993年)
(注5)中世の梵鐘や鋳物師については、坪井良平氏の緻密な研究があり、その成果を参考にさせていただいた。主な参考文献:坪井良平『日本の梵鐘』(角川書店、1970年)、有福友好『梵鐘』(1981年)、加藤諄「山陰の古鐘とその銘文」(『人文論叢』第5号、1968年)
(注6)小坂博之「因幡守護所布施代についての史的考察」(『鳥取県博物館協会会報』73号、2006年)
(注7) 『因幡民談記』によれば、同寺は慶長年間(1596~1615)の山崩れによって土中に埋まったとある。
(注8)平凡社『日本歴史地名体系32 島根県の地名』854頁。
(注9)『中世鋳物師史料』解説(名古屋大学文学部国史研究室編、1982年)
(注10)笹本正治『日本の中世3 異郷を結ぶ商人と職人』(中央公論新社、2002年)
(注11)八東郡の長砂村大日堂にあった康正元年(1455)銘の鰐口にも「大工藤原」とある。詳細は不明であるが、藤原重家の一族である可能性もあろう。
(注12)『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編』上巻452頁。
(岡村吉彦)
6日
資料調査(小鴨神社、岡村)。
7日
10日
資料調査(田後漁業協同組合、前田)。
12日
資料調査(倉吉絣、倉吉市、樫村)。
14日
資料調査(~17日、倉吉博物館等、樫村)。
17日
古墳測量結果の報告(個人宅、湯村)。
史料調査(~18日、国立歴史民俗博物館、岡村・八幡)。
18日
資料調査(林業関係映像調査、公文書館会議室、西村)。
19日
資料調査(因伯絣、倉吉市福庭、樫村)。
23日
資料調査(日露戦時資料、大山町教育研究所、西村)。
24日
資料調査(140聯隊関係資料、京都府宮津市、西村)。
民俗部会事前協議(米子市、樫村)。
25日
考古部会(公文書館会議室)。
30日
31日
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