「令和」出典との深い縁
『万葉集』は、主に7世紀後半から8世紀にかけて、天皇から庶民までさまざまな立場の人に詠まれた和歌を集めたものです。編さんに関わったのは、758(天平宝字2)年に因幡国(今の県東部)の国守として赴任した万葉歌人・大伴家持。家持が翌759年に詠んだ歌は『万葉集』の最後を飾っています。
その頃からさかのぼること約30年の730(天平2)年1月に、大宰府(今の福岡県太宰府市)の長官で家持の父・大伴旅人が宴を開催。庭の梅を囲んで詠まれた歌32首のまとまりを解説した序文(下記参照)からの引用により、新元号は「令和」になりました。
さらに、この宴には伯耆国(今の県中西部)の国守を務めた山上憶良も出席。奈良時代の鳥取県に赴任した2人の歌人は、「令和」の出典『万葉集』に深く関わっていたのです。
序文の原文
天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
序文の読み
天平二年正月十三日 帥老の宅に集まりて宴会を申べたり 時に、初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす
山陰地方唯一の国の特別史跡に指定されている斎尾廃寺跡。7世紀後半に建てられた寺院の土台となった基礎を見ることができる(琴浦町槻下)
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