県史編さん室では現在、「孫や子に伝えたい戦争体験」手記を募集中です。8月15日の募集開始からこれまで、さまざまなお問い合わせをいただいています。今回はそのうちのいくつかをご紹介しましょう。
「戦争に行ってなくてもいいですか?」
一番多いお問い合わせは、従軍経験でなくてもよいかというもの。
- 今は広島に住んでいるが、子どもの頃米子市にいた。昭和20年6月頃に家の近くで空襲があった。
- 長兄と次兄が戦死し、父親に宛てた遺書が残っている。フィリピンへ墓参したこともある。
- 6月に他界した夫が残した手記がある。
戦争は戦地にだけあったのではありません。今回の募集では特に戦時下の日常や戦中の楽しみ、銃後の守りとしての女性の務め、さらには戦後の遺族としての思いなど、幅広く戦争体験としてお寄せいただければ幸いです。
「きちんと調べてから応募したい」
お問い合わせのなかには次のようなものもありました。
- 昭和20年8月15日、海軍の航空基地で終戦を知った。常々、戦争体験を孫に伝えたいと思っていたところ。自分なりにきちんと整理して書いてみたい。
- 子どものころ近くで飛行場を建設していたのを覚えている。終戦間際になると米子から飛行機を回していた。あと1週間終戦が遅ければ、自分の家ともども爆撃されていただろう。近所にも聞いてみたい。
まずご自身で当時の記憶を整理されたうえで、手記にまとめてみたいとおっしゃる方もおられます。さらには、
- 歩兵第63連隊の戦死者に関する記録を持っているので、見にきてほしい。
など、戦争当時の資料についての情報もお寄せいただいております。手記、日記、新聞、雑誌など当時の様子を伝える文字資料や写真をお持ちの場合は、そのことも合わせてお知らせください。
募集期間は来年1月15日まで。かけがえのないあなたの体験をいま記録にとどめてください。ご不明な点は当室まで。
(西村芳将)
県史編さん室では、江戸時代の鳥取を知る上で最重要資料である、鳥取藩「家老日記」の解読を進めている。その中で、先日面白い記載を見つけたので紹介したいと思う。鳥取藩における「目明し」の初見とみられる記事である。
「家老日記(控帳)」天和3(1683)年9月19日
今年の春、米子で盗みを働いて捕らえられた者4人が逃亡、内1人が捕えられ処刑された。その盗人たちの宿をした2人の存在が発覚し、米子詰の藩士が取調べを行ったところ、盗人の宿を数回行ったことを自供した。2人が言うには、「もし命を助けていただけるなら、米子に来る盗人はほとんど知っているので、今後自分たちが目明しとなって、盗人を報告すれば、米子に盗人が徘徊することはないでしょう」。これを聞いた藩士たちは、協議の結果、それを受入れ、鳥取の家老に提案した。家老たちも相談の上、良い提案だと考えたが、しかし、それまで前例のないことであり、江戸滞在中の藩主(当時は初代池田光仲)に意向を伺ったところ、もっともであるとのことで、そのように申しつけるよう指示があった。そして、このことを荒尾但馬(あらお たじま、米子城を預けられた鳥取藩の重臣)を通じて米子に申し渡した。ただし、仕事ぶりを入念に注意するように申し渡した。
「家老日記(控帳)」天和3(1683)年9月19日
「目明し」は、時代劇によく登場し、銭形平次のような正義の味方のイメージもあれば、博奕打ち(ばくちうち)を兼ね、権力をかさに庶民をおどす悪役のイメージもある。『広辞苑』では、「江戸時代、放火・盗賊その他の罪人を捕えるため、与力・同心の配下で働いた者。多くは以前軽い罪を犯した者から採用した。」とある。
鳥取藩内の「目明し」の実態は、ほとんどわかっていないが、今回見つけた資料から、この時はじめて鳥取藩内に「目明し」が置かれたものと思われること、そして、最初の「目明し」は、泥棒の宿をした者だったことがわかり、鳥取藩でも『広辞苑』の説明と同じようなことが行われていたわけである。「毒をもって毒を制す」というこの方法を、家老・藩主が正式に承認していたのが面白い。現在なら、このようなことが一般に知れたら、どのような反応があるだろうか。
(県史編さん室長 坂本敬司)
1日
転法輪寺・大日寺縁起調査(琴浦町・倉吉市、岡村)。
10日
第2回県史編さん専門部会(原始古代)開催。
15日
手記募集「孫や子に伝えたい戦争体験」開始。
19日
河本家文書調査(琴浦町篦津、坂本)。
21日
インターンシップ研修生受け入れ(~9月1日)。
24日
日本海テレビ「とっとりWHY?」取材。
「大連を語る会」後藤氏聴き取り(米子市、西村)。
29日
若桜町人権問題学習講座講師(坂本)。
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