戦国時代の末期、鳥取城は織田と毛利の戦争の境目に置かれていました。天正9(1581)年7月、信長の命令を受けた羽柴秀吉は数万の軍勢を率いて因幡に攻め込みます。このとき鳥取城には、毛利から派遣された吉川経家をはじめ1,400人の兵が立て籠もっていました。
このとき秀吉は鳥取城を徹底的に包囲し、城内の食糧を絶ついわゆる「兵糧攻め」という戦法を取ります。
秀吉来攻の知らせはすぐに毛利方の山陰担当である吉川元春のもとへ届けられました。このとき元春は、鳥取城を救援するため、浜田(島根県浜田市)に滞在している家臣の山縣善右衛門に書状を送っています。そこには次のように書かれていました(読み下し文)。
くれぐれも温泉津武安所へも早々人を遣わし、出船の儀申し催すべく候、油断候ては曲事たるべき事に候
急度申し候、上勢の儀、去る七日、因州打ち入り湯山陣取り候、鳥取へ中間一里これ有る由候、爰元(ここもと)の儀も沙汰におよばず、十六日に打立ち候、しからば以前も重々申し聞かせ候大黒丸の儀、早々差上すべく候、一刻も延引候ては曲事たるべく候、そのため急ぎ申し遣わし候、謹言
(天正九年) (吉川)
七月十一日 元春公 御判
山縣善右衛門尉殿
(「山縣家文書」,鳥取市歴史博物館所蔵)
内容を整理してみましょう。「急ぎ申し上げる。上勢(羽柴軍)が去る(7月)7日に因幡へ進出し、鳥取城から一里ほどの距離にある湯山(鳥取市福部町)に陣取った。自分も16日にここ(出雲・伯耆国境付近)を出陣する予定である。ついては以前から何度も申し聞かせている大黒丸の件、大至急因幡へ派遣してほしい。一刻たりとも遅れてしまってはよろしくない。なお、温泉津(島根県大田市温泉津町)の武安就安(温泉津を管理する毛利奉行人の1人)のところにもすぐに使者を遣わし、出船するよう催促してほしい」と書かれています。秀吉が鳥取城東方の本陣山(太閤ヶ平)に着陣する直前の状況を記したものと思われます。
ここで注目したいのは、元春が「大黒丸」という名の船を浜田から因幡へ派遣するよう命じていること、また温泉津の武安就安に対しても船を出すよう要請していることの2点です。
「大黒丸」がどのような船であったのかは明らかにできませんが、「以前も重々申し聞かせ候」とあることから、吉川氏が事前に準備していた船であったことは間違いありません。鳥取城の吉川経家が以前から何度も元春に兵糧支援を申し出ていることを勘案すると、「大黒丸」は元春が鳥取城救援のために用意していた兵糧船である可能性が高いと考えられます。
また、温泉津は石見銀山の銀の積出港として当時毛利氏が直轄支配をしていました。このほかにも元春は江津の都野氏に対しても船の派遣を要請しています(注1)。
このように、秀吉の兵糧攻めに対する鳥取城救援のための軍事船は、遠く離れた浜田・温泉津・江津といった石見国沿岸部の各港において準備されていたことがわかります。
しかし、鳥取城救援は結果的には成功しませんでした。当時、鳥取城下へ通じる千代川の河口付近には織田方の松井康之率いる水軍が停泊しており、逆に9月に松井水軍によって泊城(東伯郡湯梨浜町)や西伯耆(場所不明)で毛利の船団は撃破され(注2)、その結果、10月25日に鳥取城は落城します。
このような鳥取城と石見国の関係も今年度の調査で確認された新たな史実の一つです。
(注1)天正9年7月11日吉川元春書状写(「藩中諸家古文書纂」大島省三郎,岩国徴古館蔵)。
(注2)天正9年9月16日織田信長黒印状、同年9月24日織田信長黒印状(以上「細川家文書」,『宮津市史』所収)。
(岡村吉彦)
昨年の暮れに刊行された岩波新書『シリーズ日本近現代史 (1) 幕末維新』(井上勝生著)は、古い日本近代史の見方に変更をせまる、意欲的な通史だ。
本書の冒頭で、著者は次のような疑問を投げかける。
切迫した対外的危機を前提にしてしまうと、専制的な近代国家の急造すら「必至の国家的課題」だったということになる。しかし、一八七一年から政府要人たちが長期に米欧の回覧のために日本を「留守」にできたのはどういうふうに説明できるだろうか。
幕末維新期の日本は、欧米列強による植民地化の危機にさらされ、その対応として、封建的な江戸幕府が打倒され、近代的な明治政府が成立し独立が守られたというのが「通説」だが、本当に植民地化の危機があれば、岩倉使節団が約1年間も日本を離れたことは説明できない。
本書における著者の主張を、私なりに大胆に要約すれば、
- 開明的で、国際法に基づいて欧米と対等に外交交渉を行ったのは幕府であり、
- 明治政府に連なる勢力は、国際法上では不法で不誠実な行動に終始した。
- 民衆は、欧米の文明とは異なる形ではあるが、規律的で、衛生的で、勤勉さを持った、発展した伝統社会を持っていた、ということ。著者の明治政府批判は手厳しい。
ところで、本書の中で、鳥取藩と鳥取県に関する記載が3ヵ所ある。一つは、安政の大獄の時期に孝明天皇が水戸藩に送った密勅(暗に井伊直弼の排斥をもとめたもの)が鳥取藩を含む雄藩に伝えられたこと。二つめは、明治維新後、藩の兵権を政府の兵部省に移し、知藩事が辞職して人材を登用する事を建言した藩の一つとして鳥取藩があること。三つめは、明治6(1873)年に続発した新政府反対一揆の代表的な事例としての鳥取県会見郡(県西部)徴兵令反対一揆の記述である。
いずれもごくさらりと触れられる程度で、記述は多くないが、当時の政局の中で鳥取藩は大藩として一定の位置を占めていたこと、明治初期のいわゆる会見郡血税一揆は、当時の民衆の動きを代表する行動であったことは窺える。さてそれでは、鳥取藩と藩内の民衆は、幕末維新史の中でどのような存在だったのか。鳥取藩は、幕府の官僚たちのように開明的であったのか。倒幕派のように不法なことでも平気で行えたのか。鳥取の民衆は豊かな伝統社会を持っていたのか。そのように問いかけてみると、鳥取の幕末維新史も、また変わった見方ができるかもしれない。
(県史編さん室長 坂本敬司)
欠員のため、これまで現代担当の西村副主幹が兼任してきた民俗分野について、新しく専任のスタッフが着任しました。
主事 樫村 賢二(かしむら けんじ)
担当:民俗
平成19年2月より県史編さん室に勤務することとなりました。県民、さらに国内外の人々に重要かつ利用しやすい鳥取県の民俗資料を収集、提供し、さらに後世に伝えるために努力したいと考えております。
さまざまな人々の力添えがなくては成しえない事業でありますので、皆様のご協力、ご支援をお願い申し上げます。
4日
仕事始め。
満蒙開拓団について聴き取り(北栄町、西村)。
22日
募集手記資料調査(智頭町、西村)。
23日
学童疎開に関する募集手記資料調査(兵庫県尼崎市、西村、石田委員とともに)。
24日
高射砲聯隊に関する募集手記資料調査(兵庫県加古川市・姫路市、西村)。
26日
第2回県史編さん専門部会(近世)開催。
「日本荘園絵図聚影」ワークショップ(~27日、東京大学史料編纂所、岡村)。
29日
大山僧坊跡等調査委員会(大山町、坂本)。
★「県史だより」一覧にもどる
★「第11回県史だより」詳細を見る