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中世伯耆の商人たち

 県史編さん事業の中世分野では、県内外の鳥取関係中世史料の調査のほか、活字史料集からの県関係史料の抽出も進めています。

 その中でも、経済・流通に関する史料は極めて少ないといえます。しかし中世における地域のすがたを明らかにするためには、さまざまな階層・職業の人々の日々の生業や交易の営みをわずかずつでも解明することが大切です。このような観点から、今回は中世の伯耆商人たちの活動を示す史料をいくつか紹介したいと思います。

伯耆商人国屋又四郎について

 「蜷川家文書」(注1)に次のような史料があります。

右子細は、伯耆国商人国屋又四郎と掃部両人の間において、しょうはい(商売)の料足の事、受け取るべき由申し候処、割符京都より取り下すべき間、我々請人に罷り立ち候へと申す間、掃部方へ証状遣わし、国屋又四郎方へ料足渡し候処、彦次郎彼一行盗み取り、小浜商人に懸け違乱仕候事、言語道断次第也(以下略)

 これは、1506(永正3)年12月9日に若狭国小浜(福井県小浜市)の絹屋主計という人物が記した訴状です。

 概要は以下の通りです。伯耆国商人国屋又四郎と掃部という人物の間の金銭支払いのために、京都から割符(さいふ)を取り寄せるので、絹屋主計に対して保証人になってほしいという依頼があった。そこで絹屋主計が証明書を発行したところ、彦次郎という人物がその証明書を盗み取り小浜(福井県)の商人に渡してしまった、というものです。割符というのは現在の為替手形のことで、当時畿内およびその近郊では、年貢や代金の支払いに多く用いられていました。この割符の換金には証明(裏書にあたるもの)を必要としましたが、その証明書を絹屋主計が発行したところ、彦次郎に盗まれたというものです。

 事件の詳細は明らかではありませんが、ここで注目しておきたいのは、伯耆商人国屋又四郎という人物の存在と、彼が小浜で商業活動を行っていたという事実です。国屋又四郎の出自等は不明ですが、管見の範囲では、屋号を持つ中世の伯耆商人として史料上確認できる唯一の人物です。中世の小浜は日本海海運と畿内経済圏を結ぶ要港であり、山陰や九州からも多数の商船が出入りしていました。小浜に入った荷物は琵琶湖水運を通じて京都方面にも運ばれていました。この史料は伯耆国からも商人たちが海を越えて小浜に渡り、北陸や畿内で幅広く商業活動を展開していたことを示すものといえます。

伯耆の彦次郎について

 もう1例紹介しましょう。「東寺百合文書」(注2)に次のような史料があります。

路次如何候間、少しづつあき(商)人両人に、公用渡し候、伯州の彦次郎と申す者にも漆さし(指)中三、上げ申し候、国弓矢により此の如く候、何も御請け取り下し給うべく候、追々少しづつ奔走いたすべく候、去年も申し候ごとく、何もあき人に渡し候やと御状給うべく候(以下略)

 これは、備中国(岡山県)新見荘の代官新見貞経が、領家である東寺に宛てて書いた書状です。年不詳ですが、16世紀中ごろに出されたものと推察されます。新見荘というのは岡山県北部に位置し伯耆国に接する荘園です。当時、新見貞経はその領家方の代官を請け負っており、年貢を京都の東寺に上納していました。史料中の「公用」とは東寺に納める年貢を指しています。

 概要は、新見荘の年貢として漆を京都に運びたいが、備中国内で合戦が生じているため、道中が危険である、そのため京都に向かう商人を通じて少しずつ運ぶことにするので受け取ってほしいというものです。当時、新見荘には定期市が開かれており、さまざまな物資が京都にも運ばれていました。

 ここで注目すべきは、新見貞経が伯耆国の彦次郎という人物に漆桶を三つ渡した、とあることです。このことから、彦次郎が伯耆国から中国山地を越え、新見荘を経由して京都に向かう商人であったことがわかります。

 このように、わずかな事例ではありますが、中世の伯耆商人たちは、日本海や中国山地を越えて、幅広く商業活動を行っていたことがわかります。彼らによってもたらされた全国各地の産物・情報・文化は伯耆国内で紹介され、人々の生活や地域社会に取り込まれていったものと思われます。

(注1)永正3年12月日若狭小浜絹屋主計陳状(東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第21 蜷川家文書』第388号)。

(注2)年不詳3月10日新見貞経書城(『岡山県史 第20巻 家わけ史料』所収「東寺百合文書」さ函143号)。

(岡村吉彦)

室長コラム(その17):里見と淀屋~倉吉・ダブルストーリー~

 平成19年10月14日(日)、倉吉市西仲町の高田酒造倉庫で開催されたシンポジウム「未来への礎~倉吉・ダブルストーリーに見る倉吉の歴史と発展」で、「江戸時代の倉吉あれこれ」と題してお話しさせていただいた。

 鳥取県では、国民文化祭開催の翌年から、毎年秋に鳥取県総合芸術文化祭を開催し、第5回に当たる今年は、メイン事業「倉吉・ダブルストーリー」が平成19年11月11日(日)に倉吉未来中心で開催される。「ダブルストーリー」は、中部地区ゆかりの「里見忠義と八賢士」と「淀屋」の二つの物語を指し、今回のシンポジウムは、メイン事業に先駆けて、「里見」「淀屋」の時代背景や産業・経済の面から倉吉発展の基礎を振り返り、併せて、今後のまちづくりや地域文化の創造について考えようとしたものだ。

 江戸時代の初めの1614(慶長19)年、安房国館山(千葉県館山市)の里見忠義は、幕府から国替え(実質的には改易)を命じられ、伯耆国倉吉に移り、その後、久米郡下田中村(倉吉市下田中)を経て同郡堀村(倉吉市関金町堀)に移り、1619(元和5)年にその地で亡くなった。墓は倉吉市内の大岳院にある。この里見忠義をモデルにして作られたのが、有名な滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』だ。

 一方、大阪の中心部の淀屋橋に名を残す淀屋は、江戸時代初期から米相場や大名貸しで莫大な富を蓄えた豪商。しかし、5代辰五郎は、1705(宝永2)年、「町人の身分に過ぎた振る舞いがあった」として幕府から闕所(けっしょ)、すなわち財産を没収され、大阪から追放を命じられる。しかし、その流れを汲む牧田家は、倉吉に移って淀屋の名を守り、後に大阪中心部に淀屋を再興する。

 この二つの物語は、倉吉を全国に発信する非常に良い素材だが、歴史研究者にとっては、なかなか扱いにくい対象だ。というのは、里見の場合、忠義が倉吉に滞在した江戸時代前期の史料が県内にほとんど残っておらず、忠義やその家臣たちの実際の行動はほとんどわからない。牧田淀屋についても、幕末に鳥取藩内で生産される木綿を扱った藩の記録はあるが、幕末期に衰退したといい、これも史料的には乏しい。

 しかし、江戸時代の倉吉が繁栄していたことは確かだ。その背景には、この地域の鉄と木綿の生産がある。

 鉄は、県内では日野郡が有力な産地だったが、倉吉周辺でも鉄山が数多くあったし、また、海岸で採取する「浜砂鉄」もかなりの量に上ったと思われる。この鉄を原料に、鍋・釜を作る鋳物師(いもじ)や鍬・鎌等を作る鍛冶屋、そして全国的に広まった稲扱千歯の生産が、倉吉とその周辺の重要な産業だった。

 また、江戸中期以降は、綿の栽培とそれ原料とした木綿の生産が、鉄をしのぐ主要な産業となる。幕末には、木綿は倉吉周辺地域が領外に移出する産物の約6割を占め、その多くは、倉吉から山を越えて山陽側に運ばれ、大阪に送られた。おそらく、当時倉吉周辺の農家の女性のほとんどは、農閑期には木綿の機織りに携わっていただろう。

 しかし、開国によって安い外国の木綿が輸入されるようになると、国内の木綿産業は大打撃を受け、倉吉もそれは同様だった。しかし、そのような時代の中で倉吉は、地域に存在した木綿生産の技術を基礎に、「倉吉絣(くらよしかすり)」という、より高度な技術で付加価値の高い商品を作りだしていく。時代の変化の中で、地域の既存の技術を元に、いかに新たな産業を興していくか、その課題は、昔も今も変わらないというのが、今回話しをさせていただいた私の感想だ。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2007(平成19)年9月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)月例会(鳥取市、坂本)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)月例会(米子市・倉吉市、坂本)。上淀八朔行事調査(米子市、樫村)。
史料調査(鳥取大学、坂本・大川)。
6日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
7日
六部山古墳群出土物調査(鳥取市埋蔵文化センター、岡村)。
10日
現代資料調査(岩美町荒金、西村)。
民俗調査(~12日、若桜町・智頭町、樫村)。
13日
中世石造物調査(琴浦町、岡村)。
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
15日
日本民具学会大会(~16日、福島県立博物館、樫村)。
17日
六部山古墳群出土物調査(~23日、鳥取市埋蔵文化センター・鳥取県立博物館、岡村)。
20日
大山村兵事資料調査(~21日、公文書館、西村)。
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
27日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。

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編集後記

 10月に入り、急に秋めいてきました。

 そのような中、県史編さん室のオープニングスタッフであった茶谷非常勤(近世古文書史料解読担当)が、ご出産のため10月をもって退職されることになりました。高い古文書解読力とその速さで編さん事業の力となり、明るいキャラクターで室のムードメーカー的存在でもあっただけに少し寂しいですが、お母さんとして頑張っていただきたいと思います。

 さて今回は「中世伯耆の商人」、江戸時代の倉吉の産業という経済に関する話題がそろいました。「商(あきな)い」の「あき」は「秋」で、秋に農作物の取引が行われたことによると言いますが、季節にふさわしい話題になったのではないでしょうか。

(樫村)

  

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